フェイクニュースと科学コミュニケーションの失敗~イプセン『民衆の敵』

 シアターコクーンで『民衆の敵』を見てきた。言わずと知れたイプセンの有名作で、ジョナサン・マンビィ演出である。この演目は一度見たことあるのだが、その時は演出が気に入らなくて全然面白いと思わなかった…ものの、今回はとても良かった。

 

 主人公は医師で科学者であるトマス・ストックマン(堤真一)で、研究者として地元の温泉の研究と開発に非常に情熱を傾けている。ところがその温泉に水質汚染が発覚し、トマスはみんなのために良かれと思ってこれを告発しようとする…のだが、市長である兄(段田安則)をはじめとする街の人々から思いも寄らない形で圧力をかけられることになる。

 

 セットは北欧の家や新聞社を模したよくできたものだ。手前に川というか温泉というか、検査用の水を採取するような場所もある。全体にヴィジュアルはなかなか良かったのだが、ただセットのすごく奥で台詞をしゃべると一部ちょっと聞き取りづらくなるところがあったのと(家具の配置のせいか?)、あと「民衆」が場面の間にやたら踊るのは要るのかなという気がした。

 

 この芝居のポイントは、頭で考えると明らかにヒーローであるはずのトマスが、実はそんなに人好きのするタイプじゃないのかもしれないということが心理的にはけっこうよくわかるように描かれているところだと思う。トマスは正しいし、嘘をつかないし、誠実で立派で有能な科学者で、真摯に地元民や観光客の健康を心配している医師だ。正しいことしか言わないトマスが、地元の観光客を減らしたくない市長と誠実な報道を行わないマスコミ、それに同調する人々の群集心理により民衆の敵認定される話は非常に恐ろしいし、これは明らかに民主的に見える社会の腐敗と堕落を批判する作品だ。市長はトマスの行う正しい情報をフェイクニュース扱いし、市に都合のいい声明を発表する。これは現代でも気候変動とか、フリントの水質汚染とか、世界各地で起こっていることを思わせる展開で、背筋が寒くなる。

 

 しかしながら、この芝居がものすごく21世紀的なのは、トマスがみんなが手放しで応援できるような感じのいいヒーローではないことだ。トマスはいい人だが、科学コミュニケーション的なことが壊滅的にできない。科学的に証拠があることを話せば皆信じてくれると無邪気に思っていて、いつもけっこう上から目線で、聴き手を敵に回すような表現ばかり選んでしまう。演説のやり方なんかは全然知らないし、どうやったら人の同情を引けるかとか、良心に訴えられるかとか、そういうレトリックのことなんかたぶん考えたこともない。堤真一演じるトマスにはある種のカリスマがあって、観客として見ていると彼にとても惹きつけられるのだが、一方で彼が発しているなんともいえない熱い「優秀」感は、たぶん科学者ではない市民にとって気持ちの良いものではないんじゃないかと思う。一方で段田安則演じる市長はのらりくらりと何にでも慌てず対処できる百戦錬磨の政治家なので、この素直でバカ正直とも言えるトマスが対抗できるわけはないし、そしてたぶん兄貴の市長が弟をあんまり良く思っていないのは、弟のキラキラした科学者ぶりにコンプレックスを抱いているというのもあるんじゃないかと思う。そこにさらに谷原章介演じるやたらイケメンで調子のいい風見鶏みたいな新聞編集人ホヴスタまでからんできたら、勝てるわけがない。

 

 そして、この主人公は真実を知っているのにその使い方を知らない、というのはイプセンの芝居における大きなテーマなんだろうと思う。イプセンの主人公は、まずい時にまずいやり方で真実を開示してしまう。『民衆の敵』のトマスや『野鴨』のグレーゲルスが典型だが、『人形の家』のノラや『幽霊』のアルヴィング夫人にもそういうところがある。トマスが知っている、科学的である意味ではマッチョとも言える形でがつんとストレートに提示される真実と、ノラが知っている、あまり自分の考えを述べることを許されていなかった女性の経験に根ざしていて論理的に言葉にしづらい真実の間には大きな違いがあるが、それでもこの2人は真実を認めてくれない社会と戦わなければならないという共通した問題を抱えている。