予告がネタバレしすぎでは…?『ペナルティループ』(試写、ネタバレあり)

 『ペナルティループ』を試写で見た。

www.youtube.com

 岩森(若葉竜也)が溝口(伊勢谷友介)という男を殺す1日がひたすら毎日繰り返されるというループものなのだが、それが途中でどうも溝口は岩森の恋人を殺害しており、その復讐として岩森は溝口に毎日復讐するプログラムに同意したらしいことがわかる。毎日ちょっとずつ違う殺し方で、2人の関係がどんどん変化したりして、序盤はちょっと暴力的な復讐スリラーという感じだが、終盤はダークコメディっぽくなっていく。一応最後にループが終わり、オチもある。

 ループものとしては発想はけっこう面白いと思うのだが、どうも設定が個人的にピンとこなかった…というか、そもそも恋人の恨みを晴らすのに何度もループで犯人を殺害するというのが、設定としては面白いものの別にそんなことやりたい人いるかな…という気がしてちょっと強引というかアクロバティックすぎる気がした(1回殺すならともかく、毎日繰り返すのってそんなに意味があるのか?)。途中で岩森がもうやりたくないとか言い出すのだが、当たり前だろ…と思ってしまった(ただ、ここはちょっとダークなユーモアなんだと思う)。また、殺された恋人である砂原(山下リオ)が基本的に男性の記憶の中にだけ存在する女性で、全然主体性がないキャラクターであるのは少し気になった。

 なお、この種の話は見ていて意外性があったほうがいいと思うのだが、ポスターや予告がちょっとネタバレしすぎている気がする。もう少し基本的な設定を伏せて、なんでループが発生しているのか全くわからないような状態で見たほうが面白いような気がした。

ドイツで迫害の対象となった同性愛者のオーラルヒストリーをとらえたドキュメンタリー~『ナチ刑法175条』(試写)

 『ナチ刑法175条』を試写で見た。2000年のドキュメンタリー映画で、何度か日本で特別上映されたことはあるが、劇場で正式に商業公開されるのは初めてだということである。

www.youtube.com

 刑法175条はドイツにおける男性間同性性交渉を規制する法律である。この法律に大きな影響を受けた6名の男性同性愛者と1名の女性同性愛者のオーラルヒストリーをとったドキュメンタリーだ。今から20年も前の映画とはいえ、迫害当事者はかなり高齢化しており、現在だとほぼ存命の方はいないのではないかと思われるので、貴重な歴史的記録である。

 第一次世界大戦後のドイツでは性科学研究所ができて同性愛の合法化を求める動きが起こったり、都市部でキャバレーやクラブが興隆したりして同性愛者に対する締め付けが緩んだのだが、ナチスが勢力を伸ばすと同性愛者に対する迫害がどんどんひどくなっていく。この映画では男性同性愛者がいかに暴力的な迫害を受け、収容所でも全く人権のない最下層の人間のように扱われたかが当事者の証言によって説明されている。中にはユダヤ人で同性愛者だった人もおり、常に怯えながら暮らさねばならなかった。被害者たちは、自身は全く悪くないはずなのに恥の感覚を抱えて当時のことを語りたがらなくなっていることもあり、証言の様子を見ているだけでかなり悲惨である。一方で今の感覚だとちょっとどうかと思うような、教員と生徒の間の性的関係などがあからさまに語られているところも興味深い(当時は出会いの機会がなかったのだろうし、そういうこともけっこうあったのだろう)。一方で女性同性愛者は主体性のない生む機械扱いされていたせいで法的迫害を受けることが少なく、別の意味で人間扱いされていなかったことも説明されている。

 大変重い内容のドキュメンタリー映画だが見る価値のある作品だ。おそらく『大いなる自由』や『エルドラド ナチスが憎んだ自由』と一緒に見るとよい映画だと思う。とくに『大いなる自由』では男性同性愛者がナチスの時代を生きのびた後も収監され続けたことが描かれているが、この映画はそれについても少し触れており、たぶんまとめて見ることでドイツにおける同性愛の歴史を考えることができる。

『アイアンクロー』に推薦コメントを寄せました

 どういうわけだか映画『アイアンクロー』に推薦コメントを寄せました。他がそうそうたるプロレスラーの方とかなのにひとりだけプロレス知識ゼロの英文学者です。ただ、私はこの映画に出てくる人物をひとりも知らなかったのですが、何の予備知識もなく見に行ってものすごく心を動かされました。

ironclaw.jp

池田直広&永瀬千裕『マクベス』#6シェイクスピア朗読Challenge第53回宵待シアターLIVE

 池田直広&永瀬千裕『マクベス』#6シェイクスピア朗読Challenge第53回宵待シアターLIVEを見た。『マクベス』を2人(+音楽)でやるというもので、不眠に焦点をあてたものである。意外と夫婦以外のキャラも出てくる。夫婦漫才っぽい『マクベス』というのは既にあるので、これももうちょっと発展させて夫婦だけのフルの芝居にできるのでは…という気もした。なお、役者のセリフに比べて解説のマイクの音量が小さく、配信では音のバランスがちょっと悪かった。

ポールがイケメンすぎるのが悪いと思うんだ~『デューン 砂の惑星 PART2』(ネタバレあり)

 『デューン 砂の惑星 PART2』を見た。当然第一部の続編である。

www.youtube.com

 父親を殺されたポール(ティモシー・シャラメ)は砂漠の民フレメンのもとで修業して砂漠の民らしい戦い方を身につけ、ハルコンネン家と戦って次第に支持を広げるようになる。スティルガー(ハビエル・バルデム)をはじめとする一派はポールが予言された救世主だと信じるようになり、ポールの母ジェシカ(レイチェル・ファーガソン)もフレメンの教母となってその予言を人に信じさせようとする。最初は救世主扱いに抗っていたポールだったが、やがてその役目を引き受けるようになり、ポールを愛するチャニ(ゼンデイヤ)はその姿に複雑な感情を抱くようになる。

 アクションとか戦闘なども含めて1作目よりもメリハリがあり、宮廷陰謀劇のところも達者な役者陣が活躍していてたるんだところがない。皇女イルーラン(フローレンス・ピュー)が帝国の噂や起こったことなどを記録する係で、冒頭から帝国宮廷はポールのことをどう受け取っているのかがイルーランの目を通して説明される。SFエピック大作としては大変面白い。

 …というわけで、見ている間は非常に楽しめるのだが、一方でエンタテイメントとしての面白さと、作品じたいが扱っている内容が齟齬を起こしているような気がしてそこが非常に気になった。この作品じたいは、救世主が現れるという予言とそれを信じる人々、そして救世主の役割を引き受けるポールを一歩引いて皮肉に見ているところがある。ポールは自分が救世主になれば多くの人が死ぬという予感に苦しんでおり、そのせいでなかなか救世主の役割を引き受けたがらないが、結局は周囲のお膳立てもあって救世主にならざるを得なくなる。つまり予言が成就した時には不幸もやってくることがわかっているので、ポールが救世主となる選択肢は不穏だし、さらに言うと自由意志によって選びとられた英雄的なプロセスというわけでもないと思う。

 そしてこのポールを相対化するのはだいたいこの映画では女性の役割である。この映画はイルーランという完全に政治家タイプの女性の語りで始まり、教母となったジェシカは息子を守るため予言の真偽とは別のレベルで政略として息子を救世主にまつりあげ、ポールを偶像ではなく人間として愛する自由な女チャニは救世主として振る舞うようになったポールを捨てて砂漠に戻っていく。この映画においてポールが救世主になるプロセスは単なる英雄譚ではなく、複雑な政治的駆け引きの結果であって必ずしも肯定されるべきことではないというニュアンスで表現されている。

 …ということで、映画全体のナラティブは予言や狂信の危険性、救世主を祭り上げることの恐ろしさといったものを描こうとしているはずなのだが、エンタテイメントとしてのワクワク展開がそのへんを非常に小さく見せてしまっていて、見ていてよくわからなくなってしまっているところがあると思う。ポールがフレメンの集まりで救世主として振る舞い、人々がそれに同意して法悦状態みたいになるところは、チャニなどの反応を通して個人のカリスマに支配されることの危険性を示唆しているはずなのだが、一方でポールのカリスマがすごすぎて、正直IMAXの大画面でこれを見ていると観客のほうもこの法悦を楽しまざるを得ないところがある。終盤の戦争場面もダイナミックすぎて視覚的に面白いので、批判的鑑識眼みたいなものが停止してしまう。全体的にはこの作品はポールを通して白人酋長的ナラティブを相対化しようとしているはずなのだが、白人酋長が魅力的な活躍をしすぎるので、頭ではわかってもエンタテイメントを楽しむというレベルではあんまり相対化がうまく働かない。

 まあ、何かもポールを演じるティモシー・シャラメがイケメンすぎるから悪いのだ、とは言えると思う。救世主の役割を引き受けてフレメンの集会で人々を扇動するポールは異常に美しくて巨大なカリスマを有しており、カメラもこのシャラメポールをひたすら魅力的に撮っている。広大な砂漠でも絵になるし、たまに見せる人たらしみたいな可愛らしい表情やセリフ回しもしっかりとらえられていて、カメラに愛されていると言える。人を扇動できるだけのカリスマを表現しないといけないからこうなったとは言えるし、ゼンデイヤ演じるチャニがかなり大役で、予言の対極にある自由への愛と現実的かつ世俗的な自立心という価値観をほとんどひとりで体現しているという対立軸はあるのだが、言葉少なでマイペースなチャニひとりで狂信への抵抗を表現するのはなかなかキツいところもある。映像というメディアはとにかくビジュアル的に美しいものには弱いので、映像のせいでナラティブが負けてしまって、「予言の危険性」みたいなテーマが薄れてしまっているところがあると思う。

「シェイクスピアの楽しみ方」オンライン講座が無事終わりました

 NHK文化センター梅田教室オンライン講座「シェイクスピアの楽しみ方」が無事終わりました。お聞き下さった皆様、どうもありがとうございます。これ以降、1年間はオンライン講座はやらないことになっておりますので最後の機会でした。

www.nhk-cul.co.jp