外国語ができるとは、なんと辛いことか〜『ドストエフスキーと愛に生きる』

 アップリンクで、ドキュメンタリー映画ドストエフスキーと愛に生きる』を見た。よくできた映画だったと思うのだが、別に愛とかの話ではない気がしたので(気がしただけだが)、邦題はこんなんじゃないほうがよかったのでは…もとのタイトルは『五頭の象と生きる女』だったらしいのだが、『スヴェトラーナと五頭のゾウ』とかいうタイトルのほうがよかったんじゃないかと思う。

 基本的には、ロシア語からドイツ語にドストエフスキーを訳す仕事をしている超ヴェテラン翻訳者、スヴェトラーナ・ガイヤーがドストエフスキー翻訳に取り組みつつ、若い頃に離れてから一度も戻ったことのなかった故郷ウクライナへの帰郷の旅をする様子に、スヴェトラーナの過去を絡めて撮るというものである。スヴェトラーナは頭は常にフル回転して冴えてるが何しろお年であるので、おばあさんの動作や歩みにあわせてゆっくりしたテンポで撮っている。
 
 単純に、翻訳者の仕事ぶりとか(スヴェトラーナは自分でPCを使ったりしないでタイピストに口述を打ってもらう!)、言葉を扱う者ならではの経験なんかが面白い、というのはあるし、またまたそういう言葉を扱う仕事を女の手仕事と絡めるという撮り方は、ちょっとクセはあるが野心的ではあると思う。スヴェトラーナは「テキストはテキスタイル」という、ポストモダン系の批評ではよくあるような話をするのだが、実際の織物の意匠を前に「男性にはわからないかもねぇー。女の手仕事って複雑なのー」みたいにお茶目な皮肉を言いながらこの話をする。このあたりはテキストを翻訳するのも織物を作るのも、注意が必要な手仕事なんだなぁ…と実感する一方、伝統的に文芸における女性の仕事っていうのが自分で新作のテキストを生産するんじゃなく翻訳するほうに偏っていたことを思うと複雑な気もする。スヴェトラーナの翻訳というのは、もとのドストエフスキーの作品をよく理解し、解きほぐした糸をドイツ語に再構成するという創造的な営為であって、これは今まで使われてきた技術を総合して新しい意匠の織物を作るのと似たところがあるんだけど、そうはいってもどちらもあまり日の当たることがない、女のシャドウワークみたいなところがある仕事である。しかしこういう映画でそういう陰の知的営為が探求されるというのはいいことだし、面白くもある。

 もうひとつ思ったのが、外国語ができるというのは強みにもなるが非常につらいことで、ひょっとしたら罪深いことですらあるのかもしれないということだ。実は同じに『レイルウェイ 運命の旅路』を見て、それも通訳と戦争犯罪の映画だったもんでちょっと1日にふたつも同じテーマの映画か…と思ってしまったというのもあるのだが、戦時中、二つの言語が使いこなせるということは、二つの政体を取り持つ役割をさせられる可能性があるということである。スヴェトラーナはドイツ占領下のウクライナで、ドイツ語が堪能だったためドイツ軍の通訳の仕事を得、奨学金ももらってドイツに引っ越すことができたが、この間にユダヤ人の友人を殺されるなどひどいめにもあっている。ドイツからそういう仕打ちを受けたにもかかわらず、若く貧しい女性が生きるためには言葉を使ってドイツに尽くす仕事をしなければならなかったというのは非常につらいことだ。スヴェトラーナは「ソ連で粛清にあった自分の一家を拾って助けてくれたドイツには感謝するほかない」と言っているが、こう言えるようになる前にはたぶんいろいろ感情を押し殺したり、自分の中で倫理的に妥協せねばならないこともあったんではないかと思う。スヴェトラーナは「ゲーテやシラーとヒトラーは天と地ほどかけ離れてる」みたいな話をするのだが、たぶんスヴェトラーナが今、ドストエフスキーみたいな非常に深い言葉を翻訳しているのは、若い頃に嘘に満ちた罪深い言葉をたくさん通訳させられたせいでそういうものにうんざりしたからなんじゃないかとすら思えてくる。外国語がわかるというのは、美しい言葉だけじゃなくいろいろな悪い言葉をも通訳しなくてはならないということだ。いいことばかりではない。

駒場博物館「ダンヌンツィオに夢中だった頃―カブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938) 生誕150周年記念展」

 駒場博物館で「ダンヌンツィオに夢中だった頃―カブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938)生誕150周年記念展」を見てきた。駒場博物館は以前の勤め先(司書TAやってた)で行くのは久しぶりだったのだが、全然雰囲気も変わっておらず懐かしい感じ。

 ダンヌンツィオというとファシズムに仰々しい作風という感じであまり良いイメージがなかったのだが、この展覧会はイタリアの当時の政治的風潮・社会的背景の中で、単純なファシズム支持というものに還元できない泥沼感あふれるイタリアの文壇と政治のぐちゃぐちゃな関わり(ムッソリーニとダンヌンツィオの間にある微妙な敵対心とか、なんかむちゃくちゃイヤ〜な感じで想像するだけで面白い)をわかりやすいパネルで解説するという感じで、ちょこっとレーニンまで登場したり、なかなか興味深い。あと、ダンヌンツィオが住んでいたヴィットリアーレのお屋敷の写真がすごく綺麗で、純粋に行ってみたいと思った。

本文批評にまつわる怪談集〜フレドソン・バワーズ『本文批評と文芸批評』

 書誌学の定番を読み直す企画の一部として、フレドソン・バワーズ『本文批評と文芸批評』(中央書院、1983)を読んだ。

本文批評と文芸批評
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中央書院
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 かなり古くなっている部分はあるが、ふだん本文批評に関わらない人でも実は本文批評関係の知識はきちんと押さえておかねば研究上いろいろよろしくないことが起こりかねない、ということがよくわかる本ではあると思う。信頼できない版を使ったせいで研究が無駄足になった、というまるで怪談のような事例が多数紹介されている。ただ翻訳はあまりこなれてなく、読みやすくはないかも…

吉屋信子の従軍記とその周りの議論に注目〜久米依子『「少女小説」の生成: ジェンダー・ポリティクスの世紀』(青弓社、2013)

 久米依子『「少女小説」の生成: ジェンダー・ポリティクスの世紀』(青弓社、2013)を読んだ。

 近代日本における男性の少女幻想、もう少し国家・社会的なスケールにおけるジェンダー規範、女性が主体的に関わる娯楽といういろいろな側面が複雑怪奇に絡んだ「少女小説」を歴史を追って見ていくものである。きいたこともないような作家の作品などが出てきて単純によく知らない人には新知識ばかりで面白い、というのもあるし、また女性の文芸活動がどういうわけだか規範的なジェンダー観に回収されていってしまう様子を明らかにしているという点で非常に読んでいて歯がゆい気持ちになる本でもある。

 しかしながら私が一番この「女性の文芸活動が規範に回収されていく様子」としてつらく思ったのは吉屋信子の従軍記周りの分析であり、全体の中ではそんなに分量が多いわけでもないこの箇所が一番強烈でその他のところはあまり印象に残らなかったかも…孫引きで恐縮だが、この箇所は後々のためにメモっておきたいのでちょっと長く引用してみようと思う(横書きなんで送り字の表示がおかしいかも)。

 こゝの南京の金陵大学には、いまだに沢山のうら若い支那の娘が立籠もり、避難し、アメリカの女の先生の保護を受けて、アメリカの旗の下に集まつてゐるといふ―私は、その人たちに、一日も早く日の丸の旗を信じて、その旗の下にこそ避難されよと、告げたかつた。
 上海から、この南京の戦跡の街を見に来て、しみ〲思ふは、敗戦国の女性ほど気の毒な惨目なものはないといふ感じだつた―もしこの位置を、彼女たちと我らと取替へて考へて見たら、ぞつとする。
 だが仕合せにも、皇軍の武士達の情のもとに、彼女たちは、そこから救はれる路はあるのだ―たゞ、その路よりも、アメリカの旗のもとに、英国の旗のもとに、彼女がゆくのも、それは自然で仕方ないが―どうか、将来、私たち日本の女性は、その異国の旗のもとから、完全に彼女たちの心を、日本の旗のもとに、集める信頼を、心より心へ伝へ得る路を開きたいと、切に―切に―思ふ
(本書p. 275。もとの文章は吉屋信子「忘れ得ぬカステラ」、「海軍従軍日記」、『主婦之友』22.11、1938/11かららしい)。

 
 これについて久米は「南京陥落時の日本軍の暴虐行為―特に女性たちへの暴行を、ある程度知っていたため」(p. 275)こんな「反転を繰り返すような...ねじれた」(p. 276)文章になったのだろうと分析しているが、非常にもっともである。明らかに著者の吉屋は南京陥落時の性暴力について聞いていると思うのだが、情報統制で書けないという理由でこんなに異常に歯切れが悪くなってしまったのだろうと思う。久米が指摘しているように、南京の女性たちに対して「気の毒」しか言えない書き方には「戦勝側に立つ者のおごり」(p. 276)も見受けられる。とくに最後の段落はあまりにもおためごかしというか、どう考えてもできっこないしひょっとしたら著者本人(女性視点の従軍記を書くということで女性の連帯を夢見て出かけた吉屋)も信じていないのかもしれないことを報道統制のせいで筆を曲げて書いている感があるという点で、実に悲惨な文章だ。しかしながら文筆家というのはどんなかたい読み物を書いている人でも(小説家だけじゃなく研究者もそうだと思うが)人気商売なところがあり、人気のために筆を曲げてこういうような政府などに阿ることを書いてしまうというのは大いにありうる。いくら弾圧があってもこういう安き道に流れたくはないものだ、ものを書く者は常に批判精神を心に入れておかねばならない、と思った。このあたりの分析はわりと気合いが入っており、先行研究まとめなども充実している。

 と、いうことで、従軍記分析のインパクトが強くて他の部分がちょっとかすんでしまったのだが、いくつか疑問点もあった。まず最初に「『少女小説』というジャンルは、欧米諸国には見られない、近代日本の独特な文化であるようだ」(p. 18)とあるが、chick litサブジャンルとしてteen chick litとかtween chick litとかがあって(teen chick litだと映画化された『ジョージアの青春日記』とかだと思うのだが)、これちょっと違うにせよかなり「少女小説」に近いんじゃないかと思うんだけど…あと、最後のライトノベルのところは大変に駆け足なので本当に必要だったのかという疑問もある。これだけでもう一冊ぶんくらい書けるんじゃないのか。

ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』〜恋か、諷刺か

 ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』野崎歓訳(光文社、2011)を読んだ。

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 きちんと原作を読んだのはこれが始めてだったのだが、読んでみたら『ムード・インディゴ』は思ったよりも全然原作に忠実だとわかり、びっくりした。こんな素っ頓狂な内容をものを40年代に書いていたヴィアンはすごい作家である。おそらく40年代には非常に前衛的だったと思われるが、よくわからない多数のガジェットに歪んだ空間と音楽、今読むとものすごくポップに見える。短い場面をたくさんつなげる構成といい、謎のマシン類といい、大変映画的なので、三度も映画になったのも理解できる。

 解説によると、この小説は純愛ものというよりはむしろ難病恋愛ものをかなり痛烈に諷刺するような話として読むこともできるということで、たしかにコランとその周りの人々に対する視線は割合辛辣なのではないかと思った。小説におけるコランとクロエの愛はセックスが介在しない恋愛ごっこみたいなものとして描かれている、という解釈もあるそうだ。と、なると、コランとクロエがずーっといちゃついていて結構性欲満々だった『ムード・インディゴ』は、構成や美術のほうは原作に忠実だけどセクシーな恋愛ものになっているという点では監督の作家性があらわれていると言えるのかもしれん。

 あと、小説にはなんか結婚式にゲイの介添人が必ず必要という話が出てきて、ゲイの兄弟が出てきて片方が女に心を動かされてモメてるとかいうよくわからない展開になったんだけど、これどうして映画に入れなかったんだろう?うまくやればすごくクィアでぶっ飛んだ面白いシークエンスになったと思うのだが…

働いたら負け、現代思想家には死を、そしてただ手を動かしてアートを〜『ムード・インディゴ うたかたの日々』

 『ムード・インディゴ うたかたの日々』を見てきた。

 私、1968年にフランスで映画化された『うたかたの日々』を高校生の時に見てなんて変な映画だ…と思った覚えがあり、今回もなんてったってミシェル・ゴンドリー監督なのですごく変な映画を期待していったのだが、こんなに「働いたら負け」「現代思想家とか信じるなボケ」っていう作品だったっけ…と思ってしまった。

 お話は女性が難病にかかって愛する夫に看取られて死んでいくというどうしようもない陳腐なものなのだが、とにかくいろんなところにひねりがあるので普通の難病ものとしては見られないと思う。「妻を看病するために全てを投げ打って全裸で働く夫」とか、ちょっと難病もののパロディなんじゃないかという気すらする。

 この映画はとにかく全編「働きたくない」という気分に満ち溢れた作品である。主人公のコランは遺産があって働かなくてもいい身分だが、愛妻クロエが胸に睡蓮が咲く病気になって治療費を捻出するため働きに出る…んだけれども、行く先々でもらった仕事がとんでもないものばっかりで、結局クロエは亡くなってしまうししまいには画面からは色すら消えてしまう。コランが働かなくていいという特権はブルジョワジーだからとかいうツッコミはできるのだが、なんというかあまりにも「労働は愛と芸術の敵」というメッセージに溢れている気がしたので突っ込む気もなくなってしまった。いや、まあひょっとしたらこの映画は『エリジウム』と同じで「病気は怖いからちゃんと保険に入ろう」っていう話なのかもしれないが別にそうでも…ない。

 さらにびっくりしたのが思想家ジャン=ソール・パルトル(サルトルのパロディね)の扱いで、この人はまったく、嘲笑され殺されるためだけに登場するカリスマ現代思想家である。なんかミシェル・ゴンドリーはよっぽどいわゆるポピュラー系「現代思想」が嫌いなのか、パルトルがほんっとどこやらの薄っぺらな言葉で他人を洗脳する新興宗教の教祖みたいな感じである。またまたパルトルを殺すエリーズがアフリカ系の美女だっていうあたり、現代思想がいまだに白人男性中心であることを暗に皮肉ってるのかもしれない。ちゃらい現代思想嫌いがあまりにも高じてしまったのか、パルトルを追っかけるシックの描写がすごくステレオタイプ的というか柔軟さに欠けるふうになっているきらいもあるのだが、もうこの映画には「エラそうな顔してむずかしいことを言うくせにちっとも世の中を面白くしない現代思想家の言うことなんか信じるなボケ!そんなひまがあるなら芸術やるか恋愛でもしてろ!」っていうメッセージがあるに違いないと思う。

 この映画は労働も現代思想も拒否しているが、一方でアートはとてもすばらしいものとして描かれていると思う。この映画におけるアートというのはダンスや音楽みたいなふつうに思いつくものから料理とか手芸、あるいは発明(カクテルピアノ)なんかも含まれるもので、いわゆるクリエイティヴな芸術/技術としてのアートな行為全般だろうと思う。とくに手足を動かして作るアートがものすごく肯定されてて、自発的な動きを抑止するものとしての労働(あの寝っころがって銃身を育てる「重労働」とか)と対比されてる気がする。ミシェル・ゴンドリーって『恋愛睡眠のすすめ』とかもそうだったけどクレイアニメ系はもちろん毛糸や布なんかを使ったオブジェにすごく興味があるみたいで、発想がアネット・メサジェとかに似てると思う。 全体的に言うとネオリベ伸長時代の『アメリ』みたいな感じで(ヒロインはオドレイ・トトゥだしね)、ちょっと古いのは否めないのだが、とにかく頭と手を使っていることは伝わってくるので単に古いと切り捨てられないものがある。なんというか、手工芸至上主義なんだろうな…オシャレ系だけどあまり嫌味な感じが少ないのはこの「とにかく手を動かしてすごいものを作る」やる気に満ちているからだろうと思う。

 ↓あと、この映画の前にあって影響を与えたものとして考えられるのはこのへんかな?

 
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カティリーナにも歴史あり〜大浦康介『フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間』

 大浦康介『フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間』(世界思想社、2013)を読んだ。

 芸術をやっている人なら一度は考えたことがあるはずだが非常につかみどころのないものである「フィクション論」に関する論集で、歌謡曲から漫画までかなり手広くいろいろなものを扱っており、最後には文献ガイドもついていて実に役立つ本である。冒頭のほうでフィクションとは何か、フィクション論とは何かというようなことを演劇論などを引きながら論じ、それ以降は具体的な作品などをとりあげてフィクション論をやるという内容になっている。

 とくに面白いのは第七章、鷲田睦朗『語(騙)り継がれるカティリーナ ― 「共和政末期の没落」をめぐる歴史叙述とフィクション』で、これはクレオパトラの表象史で修論を書いた私には非常に興味深かった。そもそも私は『キケロー弁論集』を愛読しているわりにはカティリーナに表象史があるというのに思い至ったことがなく、そのあたり自分の不明を恥じるところがあったのだが、キケローのあの悪口雑言の演説とサッルスティウスをもとに、後世の人がカティリーナものをけっこうたくさん作ってたというのがそもそも面白いと思う。同じローマの敵ということでクレオパトラの表象史とかと比較してもいいのではなかろうか。

 ただ、全体的には一本一本の論文がやや短く物足りないところがあった気はした。あと精神分析の話はフィクション論の論集に入れるべきなんだろうか…とか最初で演劇の話が出てくるわりにはお芝居だけがっつり扱った論文がないとか、論集に入れる題材のチョイスに若干疑問もあった。とはいえ、とても面白い論集だったので非常にオススメ。


参考:「さかのぼるって何?文学や映画における、時間が過去から未来に直線的に進まない作品のタイプ分類