結婚詐欺、魔女、殺人−コートヤード劇場『エドモントンの魔女』

 なんかまるで日本の時事ネタのエントリのようだが、コートヤード劇場で見てきたウィリアム・ロウリー、トマス・デッカー、ジョン・フォード作『エドモントンの魔女』の話である。これはイギリス・ルネサンスの魔女もの(ジェームズ一世の治世下で流行っていた)の傑作として知られている戯曲なのだが、あまり上演されることがない作品である。


 この芝居は、まあ一言で言うと強制結婚に魔女騒ぎを絡めた悲劇である。魔女もののプロットとしては、村人みんなから魔女と蔑まれているせいですっかり心がひねくれてしまった醜い老女、エリザベス・ソウヤーが、犬に姿を変えた悪魔に誘惑され、取引をして本物の魔女になり人殺しまで犯すが、結局は悪魔に裏切られるというもの。もうひとつの筋は結婚詐欺の話である。農家の息子フランクが貧しいウィニフレッド(妊娠中。ただしどうやらお腹の子の父親はフランクじゃなくて雇い主のクラリントン)と秘密結婚したものの、母親に言われて裕福なカーター家の娘スーザンと重婚してしまう。スーザンがじゃまになったフランクは彼女を殺害、ついには男装して夫のもとを訪れたウィニフレッドの殺害までたくらむ。エドモントンの人々が悪事を働くのは、人々の心の弱さに悪魔がつけこんだせいだということになっており、最後にフランクとエリザベスが処刑されてお芝居は終わる。


 で、原作ではエリザベスは醜い老婆ということになっているのだが、この上演では顔にデカいアザがある若くてセクシーな女性(あれだ、あのル=グィン原作の某アニメ映画に出てくるテルーと同じ)が演じている。この芝居があまり上演されないというのは、原作ではこのばあさんと、獣人…というのかどうかはよくわからないが、犬の姿をした悪魔の間に獣姦をにおわせる描写があるからだと思うのだが(まず「犬の格好をした悪魔」とかがすでに21世紀だとお笑いだし、いくらイギリス・ルネサンスの芝居には露骨な描写が多いからって「老婆と犬の獣姦」とかいうレベルでエグい描写のある作品は少ない)、その点この公演は見た目のエグさを回避して魔女に観客の同情が集まるようにしようと試みている気がする(その分、原作の持っている露骨な陰惨っぷりは減ったが)。半犬半人の悪魔も、上半身裸にゴミ袋みたいなズボンをはいただけの格好で、台詞はともかく見た目はあまり犬っぽくない(メソード演技で動物のマネをたたき込まれているであろう現代の役者さんには、やってて楽しい役柄かも)。

 この悪魔役の人(トム・ハンター)は大変上手で、批評に「タイラー・ダーデンのようだ」と書かれているが、たしかにそういう形容がぴったりな感じだった。舞台上で葉巻を吸う演出があるのだが、にかにか笑いながら嫌みな感じで台詞を言いつつ煙を吐く様子を見ていると、まるで硫黄のにおいがしてきそうだ(葉巻の悪臭がすごすぎるというのもあるかもしれんが)。フランク役やスーザン役、魔女のエリザベス役の役者さんたちもすごく頑張ってて、全体的に役者のがんばりっぷりは素晴らしいと思った。このあたりの役者さんたちは韻文の台詞をとても自然な感じで処理していて、台詞回しにネイティブじゃない私でもスッと聞き取れるようなリズムがあったと思う。

 ただ、ウィニフレッド役の女優さんの訛りがかなりきつくて、訛ってるだけならまだいいんだけど長い台詞になると韻文のリズムをもてあましてるみたいな感じになるので(私にも「あ、もたついてる」とか「今ちょっとかんだな」とかわかったので、たぶんネイティブはもっと気になったんじゃ)、そこがイマイチだった気がする。あとセットとか音の使い方は全体的にショボい…木が舞台奥に一本ドカンと置いてあって、床には葉やら枝やらが散っているというセットだったのだが、木がいかにも安っぽく、照明の加減でテカテカ光ってるのはちょっとねぇ…という木がした。それから最後にとってつけたようにマリリン・マンソンが流れるのはいかがなものか…いくら悪魔だからって安易じゃない?もしどうしてもかけたいんなら徹底的にやらないと。


 原作をかなり変えてあるとこもあったし、ショボいとこはショボいのだが、演出の出来としてはとても意欲的な公演だったと思う。どうもお客さんにショックを与えるよりは漠然と嫌な気持ちにさせることを目指しているようで、演出の視点はかなり魔女にもフランクにも同情的だ。


 エリザベスは、「魔女と言われているから魔女になった」、つまり周りから不当に貼られたレッテルを内面化して引き受けてしまうことで悪の道に入ってしまった人という扱いである。このエリザベスを超ウザくて露出度の高い若い女二人が「まじょ!まじょ!」とか言っていじめるので、一瞬『キャリー』かなんかかと思った。で、不細工なエリザベスは最初は貧乏な堅気の女だったのに、周りの美人どもから魔女呼ばわりされて結局魔女になることに決めるわけだが、復讐のためにだんだんと悪いことに手を染め、気づいた時には地獄落ち決定というレベルの悪いことをしていた上、一番ウザいいじめっ子には復讐できないまま処刑…ということになる。これって現代にもすごく通用する話だと思う。アメリカに住んでるアフリカンが代表的だが、目に見えるスティグマがあるマイノリティ集団というのはマジョリティから「あいつはきっと悪いことをする」と思われているため自己評価が低くなり、悪いことに手を染め、気づいたときには目の前で人が二、三人死んでいるというような事態になることもある。それでマジョリティはこの悪事に手を染めたヤツを処刑して「やっぱりね」となるわけだが、マジョリティがこの人をいじめなければそもそもそういうことは起こらなかったはずなのである。これが芝居なら、見ている人が魔女に同情するのは当たり前なのだが、現実でそういうことが起こるとみんな魔女を殺しておしまいになる。


 フランクのほうも、内心ではウィニフレッドをずっと愛しているのだが母親の権力に抗えるほどの強い志がないため、全く愛を感じていないスーザンとの結婚を断れなかった男という設定である(このあたり原作ではちょっと曖昧で、フランクは最初ちょっとスーザンの世間を知らないかわいらしいところによろめいてしまったため結婚を断れなかったとも読めるのだが、この芝居ではそういう解釈はとってない)。ただ、フランクは戯曲を読んだかぎりではなんかひどく考えの浅いやなヤツに見えるので、こういう同情的な描き方がいいのかはよくわからない…スーザン殺しの場面で、フランクがスーザンに「お前は娼婦だ、だから殺す」とかなんとか錯乱してわめく有名な場面があるのだが(これはイギリス・ルネサンスの常識としては正しい。この当時は夫でない男と関係すると自動的に娼婦と認定されるのだが、スーザンとフランクの結婚は本当は無効だからである)、錯乱しているとはいえこういうふうに自分の行為を正当化するのは、舞台で演じられているのを見ているとひどく身勝手な台詞だなと思ってしまう(役者がうまいというのもあるだろうが)。ところがこういう身勝手男フランクは、最後までいじめられる魔女エリザベスと違って処刑の前に妻のウィニフレッドに許してもらうことができるのである!男で多少は身分があれば、妻を惨殺しても処刑前に情けをかけてもらえるらしい(まあ結局処刑されるけど)。


 ちなみに、フランクの子じゃない子供がお腹にいるかもしれないというウィニフレッドに対してもこの芝居は同情的である(このへん、ウィニフレッドを「こずるい女」として描くことも可能ではあると思うのだが、そうはしてない)。あと、戯曲を読んだ限りではおばかちゃんみたいなバンクス(道化役)が、なんかこの芝居で唯一「悪から立ち直る強い人」みたいに描かれているのもびっくりした。そうか、一番悪に対して強いのは無垢なる道化なのか…


 …と、いうわけで、めったに見られないお芝居を観られてとても嬉しかったので長々と書いてしまったが、最後にちょっと劇場のことを書いておくと、この芝居をやってたコートヤード劇場っていうのはロンドンでもちょっと外れたとこにあって、まざにざわざわ下北沢な小劇場である。女性用お手洗いが一個をのぞいて全部つまっていたとか、バーが併設されてて開演五分前まではそこで飲んでなきゃいけないとか、どこも汚いのに劇場と街の歴史を説明したパネルだけはめちゃめちゃ気合い入ってて綺麗にしてあるとか、バーの外の階段を上ったところに小劇場があって、パイプいすに毛の生えたようなシートが50席くらいあるとか、どこをとっても場末の下北色満載だった。ただ、場所が結構デカいバス通りから一本入ったとこであまり賑やかじゃないので、細いくねくね道いっぱいで夜まで人でにぎわっている今の下北というよりは、再開発後の廃れた下北にかろうじて残っている劇場の未来図というべきかも…あんまりお客さんも入ってなかったし、評判もそんなに良くないみたいなのだが、私が見た限りでは面白かったけどねぇ…