キーラ・ナイトレイ主演、モリエール『人間ぎらい』

 キーラ・ナイトレイ主演の『人間ぎらい』をコメディシアターで見てきた。キーラ・ナイトレイはまあ映画の人なので舞台慣れしていない感はあるものの非常に頑張っていて今後期待できそうだし(身振りも台詞ももっとずっと大げさにするようにしたらかなりよくなるんじゃないかな…映画の「リアルな演技」と舞台の「リアルな」演技は全然違うけど、キーラ・ナイトレイは映画ではクローズアップで力を発揮するタイプだと思うので、舞台で映えるにはまだちょっと微調整が必要かも)、全体的に面白いし考えさせられるところはたくさんあったのだが、どうもピンとこないところもある芝居だった。


 そもそもモリエールの『人間ぎらい』はヘンな芝居で、この間初めて読んだんだけど(英語で)、諷刺が極めてキツい上、喜劇とは言い難いほど「悲恋もの」らしい芝居である。この喜劇はウソやお世辞を極端に嫌う理想主義的な若者アルセストと、体面を極めて重視する若い寡婦セリメーヌの恋を描いているのだが、なんと二人は最後に結婚しないのである!私がイギリス・ルネサンスの陽気でお色気とユーモア満載の恋愛喜劇ばかり読んで結婚脳になっているせいからかもしれないのだが、喜劇の最後に男女が結婚しないなんてまあびっくりした(結婚脳の恐怖)。しかし、どうやらイギリス・ルネサンスの喜劇とフランス喜劇というのはだいぶ違うらしい。イギリス・ルネサンスの喜劇だと、たいてい最後は愛し合う男女の結婚で終わる。


 で、このモリエールの『人間ぎらい』は、私の解釈が適切だとすれば、「愛し合う二人を引き裂く最大の障害は目に見える社会の圧力ではなく、社会的存在としての二人が内面化したモラルの差異の問題である」という話だと思う。アルセストとセリメーヌは心の底では好きあっているのだと思うのだが、お互いに自分の生きている社会の規則にあまりにも縛られており(セリメーヌは規則を重視しすぎ、一方でアルセストは規則に反抗しすぎ)、その結果傲慢になっているせいで結局結ばれない。しかしながらおそらく二人が惹かれあっているのは互いが全く違う人間、お互いに欠けているところを補ってくれる人間だからであり、たぶんどっちかが妥協しても幸せなカップルにはなれない…はずだ。いやまあなんともにっちもさっちもいかない悲劇的な話で、17世紀フランスの上流社会の話とは思えないほど現代的である。


 今ロンドンでやってる『人間ぎらい』はマーティン・クリスプが翻案し、シア・シャーロックが演出したものである。設定は結構原作とは変わっており、17世紀フランスの上流階級ではなく、現代ロンドンの演劇・映画界を舞台にしたものになっている。の設定変更はいいところもあるが悪いところもあって、それがピンとこないところを作ってしまった原因かな…と思う。


 いいところとしては、ヒロインの設定が現代人にわかりやすいようになっているところである。原作のセリメーヌは富裕な若い寡婦ということになっているのだが、翻案のジェニファー(キーラ・ナイトレイ)は新進のハリウッドスターという設定になっている。セリメーヌみたいな17世紀ヨーロッパで社交界の花形になっている身分の高い寡婦とかいうのは、ちょっと語弊はあるものの「男性に好かれるのが仕事」と言ってもいいような立場にあったと思うのである。寡婦である分夫持ちや未婚女性よりも行動の自由度が高いのだが、財産や影響力を守るためにはあらゆる方面に気を配って権力のある男どもから嫌われないようにしないとなかなか生きづらい(寡婦ではないが、この戦略を最大限に利用していたのが16世紀末のエリザベス1世である。いろんな国の王侯貴族にいい顔をして、結婚するとかしないとか優柔不断な態度をとりつつ外交を円滑に進めようとしていた)。現代だとちょっとそれがなかなかよくわからなくて、あらゆる男性にいい顔をするセリメーヌは「頭からっぽの男好き」に見えかねないと思うのだが、これをハリウッドスターにしてしまえばもう現代の観客にとっても、ヒロインのお仕事が「人に好かれること」だというのは手に取るようにわかるわけである。


 悪いところとしては、主人公のアルセストがおそろしく身も蓋もないキャラになってしまっているというところである。原作のアルセストは世間知らずで純情な上流階級のおぼっちゃんで、はっきり明示されてはいないのだが、たぶん一度結婚しているセリメーヌよりちょっと若いと思う。つまり、アルセストがナイフみたいにとがってはさわる者皆傷つけるのは、世慣れていないガキだからっていうことで多少は多めにみることができるような設定になっている。原作のアルセストがあんなに女に好かれるのも、おそらくは頭の良さに精神の成長が追いついていない子供っぽさというのが多少はかわいいからでは…とも思う(ただし、これは全く私の妄想なので、演出する際はわりと年食った男性にするのも、やっとスーツを着始めましたみたいな若者にするのも、どっちも可能だと思う)。
 ところが現代ロンドン版のアルセストは成功した劇作家で、ジェニファーよりも年をとっているので、若気のいたりっぽいところが全くなくなって、はっきり言ってカウンセラーのところに行ったほうがいいようなレベルで嫉妬深い人に見える。最後のほうでジェニファーを平手打ちしたりするし…舞台で女性に暴力をふるうところが描写されるのはどういう場合でも見ていてあまり居心地がよくないもんだが、相手がなんてったってキーラ・ナイトレイである。見ていて非常にいたたまれない(参考までに、一番下にキーラ・ナイトレイが出演したDV防止のビデオを貼っておく。ナイトレイは夫に暴力を受ける妻とかそういう役が非常に得意である)。しかも最後にアルセストがジェニファーに「隠遁生活に入ろう」と誘う部分は、まるでジェニファーに仕事をやめさせて主婦として郊外に閉じこめようとしているみたいに描かれるし…そんなわけで、原作に比べてアルセストは著しく不愉快なキャラになっており、そういう点で主人公二人に対する観客の同情が必要になる「悲恋もの」っぽさがかなり薄れている。


 で、そんなわけでこの『人間ぎらい』は、どっちかというと不愉快なアルセストよりはジェニファーを軸に展開する。ジェニファーはリンジー・ローハンかなんかみたいなハリウッドセレブで、映画ではどうやら脱ぎまくって人気を博しているらしい。周りの男みんなにいい顔をするジェニファーにアルセストは当然いらだつわけだが、ジェニファーはそれが仕事だと開き直っているところがあるので全く二人はかみ合わない。このあたりは、「見られること」を仕事にしている女性の覚悟について結構掘り下げている感じがしたので良いと思う。
 ところが、アルセストの昔の恋人であり、ジェニファーのかつての恩師でもあるらしいマーシアが出てくるとちょっとなんか雲行きがあやしくなる。マーシアは第二波フェミニストでしかも反ポルノ派かなんからしくて(イメージとしてはマッキノンかな?)、しかも私の英語があやしいせいであまりよくわからんのだがジェニファーのことも昔好きだったみたいで(バイセクシャルなのかね?)、アルセストをとられたという嫉妬心もあってジェニファーがやたら映画で脱ぎまくっていることを批判しにやってくる。それにジェニファーは自分がやっているのは「肉体の賛美」だと言って反論するということになっており、これはつまり第二波フェミニズム対ポピュラーカルチャーに取り込まれた第三波フェミニズムの対立を諷刺している…と言っていい気もするのだが、マーシアがあまりにも戯画化されている気がした上、ジェニファーの第三波フェミニズム的主張が意図的に薄っぺらく描かれているので(ジェニファーが本当に才能ある女優なのかどうかはちょっと怪しいという描かれ方をされているので、主張が口だけで実力が伴っておらず、批判を逃れるためだけに第三波っぽいことを口にしているように見える)、このへんになんとなくミソジニーっぽいものを感じた(女性同士の対立を描きたいんならもっと深められるはずだと思うのだが)。原作ではもっと露骨な嫉妬心むき出しのバトルが展開されているので、それに比べるといくぶんパワーダウンしているようにも思える。全体としてマーシアとジェニファーが絡むところは薄っぺらいような気がしたので、せっかくジェニファーに焦点をあてるならもっといろいろできたんじゃないのかな…
  
 
 最後、みんなに見捨てられかけたジェニファーが自分の色気で他の人たちの好意をつなぎとめようとするところはなんだか鬼気迫るものがあったし(それが成功するというのも面白い)、結婚と隠遁生活を迫るアルセストに「私にはパーティが必要なの」と答える場面はすごく勇敢かつ悲劇的だったと思う。この場面のキーラ・ナイトレイの「女を演じることから降りられなくなった女」ぶりには非常に感心した。この人、年取ったら『イヴのすべて』のベティ・デイヴィスや『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンみたいな大役もできるようになるんじゃないのかな?




 キーラ・ナイトレイ主演、ジョー・ライト(『つぐない』の監督)演出の、DV防止啓発ビデオ。一部ショッキングな描写があるので注意。