なんでUKのお芝居はこんなに男ばかり出てくるの?Elizabeth Klett, Cross-Gender Shakespeare and English National Identity(エリザベス・クレット『クロスジェンターなシェイクスピアとイングランドのナショナルアイデンティティ』)

 ツイッターでこんなニュースがあることを教えて頂いた。

Subsidised theatres have too few female roles, Equity says

 俳優組合Equityによると、UKで税金から支出される予算をもらっている劇場に出ている役者のうち、男のほうが女より二倍近く多く、女優は役をもらいにくいとのこと。公金を支出されている文化事業がこんな雇用状況でいいのか、と組合が批判をしているらしい。文化事業→雇用を生み出すもの、というアメリカのニューディール政策にも通じる考え方である(それにひきかえ日本は大阪で某市長がアレらしいが)。

 で、これは現代劇でもそうらしいのでそっちは非常に問題あるなと思うのだが、とはいえある程度予想される問題でもある。というのも予算をもらっている劇場ではシェイクスピアなんかの英語の古典をやることも多いだろうが、イギリス・ルネサンスの芝居というのは歌舞伎と同じく全員男の劇団でやるために書かれたもので、基本、座付きの作者が所属の役者に役をあて書きしていた。日本と違って年をとるまで女形をやることがほとんどなかったので若くてかつ芝居もできる役者だけが女役をやっており、ということは優秀な女形の数は少ないため、戯曲に出てくる女役というのは看板女形ひとりかふたり分+その取り巻きのちょっとだけ、ということが多い。しかも最近はイギリス・ルネサンスの伝統に回帰しているのか、それとも購買力のあるゲイを客としてあてこんでいるのか、ルネサンスのものに限らずオールメールのキャストでやるのも流行っている。

 しかしながら、1990年代半ばから2000年代の初め頃に「アファーマティヴ・アクション」と芸術的実験をかねて女に男役をやらせる動きが流行ったことがあった。たまたまそれについての研究書を読んだばかりだったので時事ネタにかこつけて今日はそれを簡単に紹介したい。

 このElizabeth Klett. Cross-Gender Shakespeare and English National Identity: Wearing the Codpiece. Palgrave, 2009(エリザベス・クレット『クロスジェンターなシェイクスピアイングランドのナショナルアイデンティティ――股袋を身に着けて』)は、イングランドにおいてこの頃に流行した「女優にシェイクスピアの男役をやらせる」動きを分析したものである。とりあげられているのはフィオナ・ショーの『リチャード二世』(1995-96)、キャスリン・ハンターの『リア王』(1997)、ヴァネッサ・レッドグレイヴがプロスペローをやった『テンペスト』(2000)、ドーン・フレンチが「ボトム夫人」として女版ボトムになった『夏の夜の夢』(2001)、2003年から2004年にかけてグローブ座で実施されたオールフィメールシリーズ(有名なオールフィメールの『じゃじゃ馬慣らし』を含む)である。最近ならヘレン・ミレンが女版プロスペローことプロスペラ役をやった映画『テンペスト』もあるが、この本はこの映画が出る前に出版されたのでもちろんそれは扱っていない。

 演目ごとに女優を起用した効果はかなり異なっていたらしいのだが、オールフィメールとかだと同じ演目を見ても評者によって「転覆的でフェミニスト的、クィアだ!」という批評と「単に男性中心主義を強化しただけでした」みたいな全然違う批評が出たりしたそうで、そもそもクロスジェンダーな上演というのは見る人にとって解釈がハードな作品なんだろうという気がした。ただ、興味深いのはオールフィメールじゃなく主演に大女優を迎えて悲劇のアイコニックな男役をやらせる演目だと「ジェンダーはあまり問題じゃなかった。この芝居は普遍的だし、主演女優の演技も女だからどうとかいうものじゃなかった」と、クロスジェンダーであることを過小評価するような批評が増え、一方喜劇だと笑えるからあまり抵抗がなく受け入れられることが多いらしいことである。あと、イングランドを出て外にクロスジェンダーシェイクスピア上演を持っていくとたいてい国内より評判がいいそうで、とくに『リア王』を日本に持ってきた時製作陣は日本の客の偏見のなさに驚いたとか(クレットは書いてないが、まあ日本はヅカがあるから女性がリア王役でもたいして驚くまい)。イングランドにおけるシェイクスピアというのはナショナルアイデンティティの拠り所のひとつなので、それを揺るがせるような演目には不安になるという傾向が見るほうにもあるようである。

 しかしマーク・ライランスがグローブのヘッドをやめるとこの流行は下火になり、今みたいに男男した舞台が主流になってしまったようだ。しかし私が疑問なのは、こういう男男舞台は部分的にはヘテロセクシャルの女性の要求に応えて作られているのでは、ということである。スティーヴン・オーゲルとかピーター・スタリブラスとかいろいろな論者が述べているが、自分たち客のために美しい演技をしてくれる男の人を見るというのは、それだけで男社会でつらい思いをしている女性にとっては生き抜きになることである。案外、女優と女性観客の利害というのは衝突してしまうのではないか、というのが私の考えていることである。