モーガン・ロイド・マルコム作『エミリア』を配信で見た。近世の女性詩人でシェイクスピアの同時代人であるエミリア・ラニエをヒロインにした作品である。つい最近のプロダクションだ。
円形でちょっと劇場っぽいセットの雰囲気もいいし、オールフィメールで3人の女優がエミリアを演じるとか、フェミニスト的コンセプトも評価はできる…のだが、正直、エミリア・ラニエの詩を読んで博士論文でも扱った私としては、こういう方向性だけは避けてほしいなぁということをかなりやってしまった芝居に見える。エミリア・ラニエがシェイクスピアと一時期恋仲で、さらにラニエの言葉をシェイクスピアが使っていたとかいう展開があるのだが、これは昔からインチキ学説として近世英文学研究の中ではボロクソに言われつつ、世間では人気のあった説に基づいていると思われるのである。ラニエはシェイクスピアのソネットに出てくるダーク・レディの候補として有名で、さらにシェイクスピアの作品の一部を書いていたとかいう全く根拠のない噂まであるのだが、この芝居はそういうけっこう昔からある、下世話な興味に基づいたうさんくさい説に拠ってしまっている。
私はそういうのが非常にイヤだなと思うのは、エミリア・ラニエみたいな宗教的テーマを扱う個性的な詩人というのは、シェイクスピアの恋人だったとかいうような与太話から離れて独立した才能として考えるべきだと思うからである。ラニエとシェイクスピアは知り合いだったかもしれず(共通の知人がわりといる)、とくにラニエはシェイクスピアの有名作は知っていた可能性もあるのだが(『アントニーとクレオパトラ』とかシェイクスピアの長詩の類いは知ってたのではと思う)、シェイクスピアとラニエの緊密な関係を裏付ける証拠はない。どちらもちょっと個性的すぎる詩人で、テーマの選び方も違う。シェイクスピアの陰にラニエが…みたいな話はこれまでラニエを自分で書く詩人としてではなくミューズの立場に押し込める性差別的な野次馬根性から面白おかしく語られてきたものであり、今更そういう説(しかも学問的な根拠があまりない)に拠った話を作るのはかえって詩人としてのラニエを見えなくすると思うのである。シェイクスピアと執筆仲間だった、くらいなら十分ありそうだと思うのだが、それならもっといろんな詩人たちとラニエの交流を中心に、ラニエを独立した詩人として描くべきだったと思う。