バービカンでトニ・モリスンが脚本を書き、ロキア・トラオレが音楽を作った『オセロー』の翻案音楽劇『デズデモーナ』を見てきた。
ほとんど一人芝居に近いもので、役がふられているのはデズデモーナ役(たまにオセローやエミリアも自分でやったりする)の白人の女優ティナ・ベンコと、『オセロー』では一瞬言及されるだけのバーバリーの役と歌を担当するロキア・トラオレの二人。これに演奏者2人とコーラス2人がつく。デズデモーナが中心になって死後の世界から自分の子供時代、オセローとの馴れ初めなどを語るというのが基本構造。レイシズム、ジェンダー、階級に真っ正面から挑んだ翻案とである。
オセローとイアーゴーが戦場で行った暴虐とそこで芽生えたホモソーシャルな関係などがほのめかされる一方、男性中心主義的に対する批判は静かだが辛辣である。一方、死後の世界でデズデモーナは恋に破れて自殺したメイドのバーバリーと再会するが、バーバリーに「私たち友だちだったでしょ?」ときくと「いや、あなたと私は主人と奴隷だった」と返され、またエミリアにも「あなたは主人だった」と言われるなど、一見男性中心的な社会の被害者で清らかな乙女であったようなデズデモーナのナイーヴさも明らかにされる。トニ・モリスンの小説に出てくる女の語りというのは非常にパワーがあって独特なのだが、『デズデモーナ』は戯曲だけどやはり力がある語りは健在。これにアフリカの静かだが独特の緊張感がある歌が加わって、『オセロー』の本編では語られていない問題を巧妙にあぶり出すようなプロダクションになっている。
と、いうことで、フェミニズムと人種と階級を前面に出すというコンセプトはいいし、セリフはよく書けているし、音楽はいいし、声色を使っていろいろな役を演じ分ける女優の演技もいい。しかし二つ問題があるように思った。
一つ目はこの題材では二時間でも長いっていうこと。一人芝居で死後の語りだけだとどうしてもアクションが少なく中だるみする。とくにバービカンみたいなでっかいハコでやると、小さいライヴハウスとかでやるのに比べて親密さが減るので(たぶんこの演目は本来そういう小さいハコでやるもの)、なんか遠くで小さい人影がゆっくり芝居してます…みたいな感じになっていて二時間はつらい。一時間半でいいと思う。
ふたつ目はもうちょっと根本的な問題で私の好みが関わっているのだが、『オセロー』みたいな超自然が不在であることがキーである作品への「返歌」として死後の世界を持ってくるのってなんか卑怯、というか既に負けてないか、ということである。まあこれは完全に私の好みの問題なのだが、『オセロー』がシェイクスピアの四大悲劇の中でも独特なのは、他の作品に比べて神とか超自然の介在が全くなく、死んだ人は絶対に生き返らない不可逆な唯物論的世界で話が進んでいるというところだろうと思う。イタリアを舞台にしたイギリス・ルネサンスの芝居にはそういうものが多いと思うのだが、『オセロー』は俗世間のギラギラした欲だけが問題で、その中でどうやって自分の身の振り方を決めるか、っていうところが中心テーマになっている作品だ。そういうわけで私は『オセロー』を夢幻能に仕立て上げたクナウカ版とかには超批判的なのだが、この『デズデモーナ』も、あまり神を持ち出さないでうまくわざとらしさを回避している分クナウカ夢幻能とかよりははるかに巧妙でよくできているとは思ったんだけれども、やっぱり超自然がないことが特徴で俗世間の欲を如実に描いた芝居に、「死後」という設定でレイシズムや性差別や階級差別を暴く返歌をつけるのってなんかもう最初っから敗北しているような気がするのである。まあ私が無神論者で死後の世界とかに批判的なこともあるのでこれは個人的な好みの問題だろうが、いくら芝居であっても、「死後の世界とかねーんだよ!」みたいな芝居に「やっぱり死後の世界はありました」というオチをつけるのはなんかどうも美的にも政治的にもしっくりこないところがある(俗世の不平等には俗世で決着つけるべきでは?)。まあトニ・モリスンってスピリチュアルなライターだからこうなるのは必然なのだろうが…