論理的だけど正しくないvs非論理的だが正しい〜ヤングヴィック『人形の家』

 ヤングヴィックでイプセンの『人形の家』を見てきた。言わずとしれた19世紀戯曲の古典だが、高校生の時に読んで以来観劇するのは始めて。高校生の時にはよくわからなかった男女の機微が非常にわかってしまってこんなにオトナな話だったんか…とびっくりした。

 まあ話は誰でも知っていると思うが一応簡単に書いておくと、舞台は19世紀末のノルウェー中産階級の幸せな妻であり母であるノラは、夫トルヴァルドが大病をした際に父親の署名を偽造してお金を借りて夫を助けたという秘密を隠し持っていた(この頃のノルウェーはどうも女性の財産権に制限があり、男の保証人なしにお金が借りられなかったらしい)。ところが金を貸してくれた相手のクロクスタに署名の偽造がバレ、トルヴァルドの勤め先をクビになりそうになっているクロクスタは自分を復職させてくれるよう夫に圧力をかけろとノラを脅迫する。ノラは署名偽造を隠して夫にクロクスタの復職を頼むがクロクスタは取り合わずクロクスタをクビにする。クロクスタの後任候補でノラの友人である寡婦クリスティンはこれを知り、かつて愛したクロクスタのもとへ行って改心して自分と一緒になってくれるよう頼みに行く。ところがクロクスタは既に事実を知らせる手紙をトルヴァルドあてに投函してしまった後だった。とりあえずクリスティンとトルヴァルドは脅迫はやめるが事実はトルヴァルドに知らせる方向にする。トルヴァルドはノラが署名を偽造したことを知って怒り狂い、お前は子供の母親にふさわしくない女だ、自分の世間体はどうなる、とノラをなじるが、クロクスタからもう脅迫はやめるというメッセージとともに偽造署名がついた借用書が返却されるとコロっと態度を変えて「お前のそういうバカなとこが好きだ、許してやる」みたいなことを言う。これを見たノラは夫が自分のことを全く対等な人間として考えておらず、自分よりも世間体のほうが大事なんだ、ということに気付いて家を出て行く。

 これ、最初に読んだ時は全然気付かなかったのだが芝居で見ると実はかなりシェイクスピアの『オセロー』に似ている。ノラが夫にクロクスタの復職を頼むところとかもそうだし、最後にトルヴァルドが取り乱して「出て行くのは今日じゃなく明日にしてくれ!」というところもデズデモーナが「今日じゃなく明日殺して!」というところに似ている。イプセンシェイクスピアの関係はよくわからないのだが、ちょっとヒマな時にノルウェーでのシェイクスピア受容について調べてみたほうがいいかもと思った。

 で、私は高校生でこれをはじめて読んだ時、どうもノラのことが好きになれなくて「カッコいいけどなんだこの違和感は」みたいに思ったのだが、舞台で見てそのわけがよくわかった。というのも冒頭のノラ(演じるのはハッティ・モラハン)は可愛くてモテモテでお金や買い物が好きで…という、高校生で『人形の家』を読むような女子から最も遠くて理解できないタイプの女性だからである(高校生で『人形の家』を読むような女子はむしろクリスティンに近いことが多いと思うよ)。リッチな中産階級の妻というとなんとなくお上品なイメージがあるが、ノラは今で言うと『キューティ・ブロンド』冒頭に出てくるエル・ウッズに近い、自分の可愛らしさを武器に夫を捕まえることに疑問を抱かないマテリアルガールである。しかしこの芝居が言っているのは『キューティ・ブロンド』と同様、可愛くてモテモテのマテリアルガールにこそフェミニズムとか人権や平等の思想が必要なのだ、ということだ。と考えるといまだに舞台で上演される理由がよくわかる。そういう可愛くてモテモテでお金が大好きなノラが価値観を揺るがされるような出来事に次々と出会い、最後は「自分の夫は実は精神的DV男なんだ」と覚醒して大ショックを受ける過程をハッティ・モラハンがとてもナチュラルに演じているので実に説得力がある。 

 またまたこの芝居に出てくる男女の関係は大変オトナなもので、これも高校生の時にはよくわからなかったのだが今見るとははぁと思ってしまう。クリスティンがクロクスタに「あなたを捨てて結婚したのは生きるためだった、過去のことは水に流して一緒になってほしい」というところとか高校生の時はよくわからなかったのだが、これつまりクリスティンは家族を養うために好きでもない男とセックスしていたということで、そう考えるとすごいシビアな話である(全体的にこの芝居、反結婚主義的だよな)。好きだった彼女にフラれて非行に走ったクロクスタが再び女性への信頼を取り戻す、というところもなんかすごいオトナの決断だなぁと…全体的に遊び人だったのにノラにかなわぬ想いを捧げているランク医師とか、最後のノラとトルヴァルドの息が詰まるような会話の攻防とか、メロドラマっぽい枠に金の話をからめてそれを予定調和に落とさず男女のめちゃめちゃ現実的な話に持っていくあたり、ガキにはわからん微妙なところが多いと思った。

 それで、一番すごいと思ったのは最後のノラとトルヴァルドの会話で、トルヴァルドのほうが明らかに論理的なのに全く正しいと思えず、ノラのほうが非論理的でめちゃくちゃなことを言っているのに明らかに鋭いし分がある、というのを巧妙なセリフのやりとりで明らかにしていくところで、こういう会話が書けるというのは本当にすごい、イプセンは優れた劇作家だったんだなぁと思った。トルヴァルドは権力を持った男性で筋道をたてて話すのに慣れているから論理的で冷静で一見わかりやすそうなことを話している…のだが、よく考えると自分の世間体と思い込みだけで話していて、他人の話を理解する気がまるでないらしいことがわかる(観客席からはトルヴァルドのにぶちんぶりに何度も失笑が漏れていたが、ノラが言うことが全く理解できずセリフがかみ合わない様子はブラックコメディみたい)。一方ノラは議論の訓練というものを受けていないので顔をくしゃくしゃにして思ったことをめちゃくちゃな順番で言うから何を言いたいのかわかりにくいのだが、それでもきいているお客さんには「いやこれノラのほうが絶対まともだ、トルヴァルドには思いやりとか妻を尊重する気持ちが全然欠けてる」と手に取るようにわかるようになっている。ギリシャ悲劇の時代から芝居というのはそもそも論理に回収されない人の機微を描くことを得意としてきた、というのもあると思うのだが、このイプセンの手腕はすごいなと思った。

 まあそういうことで戯曲の優れた性質がよく引き出されたストレートな感じの上演だったと思う。衣装とか演出はわりとオーソドックスなのだが、特徴は四部屋に分かれた郊外のアパートのセットを組んでそれをぐるぐる回して長いシーンに動きをつけるというところ。この演出には好みがありそうだと思うのだが、そもそも戯曲が非常に長いので私はメリハリをつける工夫としてはいいと思った。