ドリー祭りだ!!ニュー・ウィンブルドン座、ミュージカル版『9時から5時まで』

 ニュー・ウィンブルドン座でミュージカル版『9時から5時まで』を見てきた。1980年の古典的コメディ映画の翻案で、音楽はもちろんもとの映画のヒロインの一人だったドリー・パートンが担当。劇場はここ↓

 話はもちろん原作同様セクハラ上司を三人の女性会社員がこらしめるというものなのだが、ドリーのファンの多くを占めるであろうゲイやレズビアンの観客にサービスする意図がもとの映画よりもずいぶんあるように見えた。原作は1980年ということもあり、ガーリーだけどストレートなフェミニスト映画だったと思うのだが、ミュージカル版はやたらにキャンプである。原作も結構女子三人の妄想が炸裂するファンタジー映画風味のところが強烈だったのだが、これをミュージカルでまっピンクのセットにキラキラの衣装とかでやるとなんかまるでもうドラァグショーかバーレスクかと思うような感じになる。とくにCEOになりたいという妄想炸裂中のヴァイオレットがいきなりドラァグキングのようなピカピカのスーツを着て男性ダンサーを従えながら'This old gal's now / One of the boys〜♪'などと妄想だか冗談だかよくわからないものすごいハイテンションで歌い踊るところは1980年ならあり得ないようなキャンプテイストだと思った。

 で、主演の三人は歌よりも演技重視でタイプの違う女性会社員三人をそれぞれうまくキャラ立てしていていいし、原作よりも大きくなったロズ役を演じるボニー・ラングフォードは歌に踊りにとても芸達者で良かった…のだが、驚くべきなのはどんな生身の役者よりもビデオでしか出演しないドリー・パートンのほうが存在感あるっていうことである。ドリーは第一部の最初、第二部の最初、第二部の最後に舞台上方に丸く投影されるビデオ画面で現れてちょっとした状況説明をしたり「9時から5時まで」のテーマを歌ったりするのだが、お客さんはやたらなれなれしくてチャーミングなドリーの人心掌握術にぐっと引き込まれてしまう。さらに出てくる曲はどれもドリー風味だし、はっきり言って全編ドリー祭りである。ビデオだけで生身の役者をしのぐ存在感を出せるスターというのはそうはいないと思うので、やっぱりドリー・パートンは女神でありサイボーグでありフェミニストアイコンであり究極の女ドラァグクイーンなんだな…と思ってしまった(←我ながら意味不明)。

 で、これは批評家受けは微妙だったらしいのだが、それはなんとなくわかる。というのも、笑いが全然洗練されてなくてむしろ下品(いい意味で)だし、単純にスカっとする古典的な図式の復讐コメディであまり問題を複雑に掘り下げるようなことはしていないからである。ただ、見た批評の中には「既に古くなっているところもある」とか「単純な復讐ファンタジー」みたいな言い方をしているものもあり、これは大いなる間違いだと思った。職場での性差別はいくらかは改善したにせよ今でもまだまだ超現役だし、はっきり言ってこの映画ができた1980年と今だったら今のほうが性別を問わず労働環境が悪化していると思う(就労経験のないジュディはいくら下っ端とはいえ今ならあんな大企業に就職できないだろう)。白人ミドルクラスの女性労働者に焦点をあてていて人種や性的指向、階級による差別に触れてないっていうところは時代的制約があるかもしれないが、そうは言ってもここで描かれている話は全く古くはなってないし、むしろ2000年代に女子映画で注目されるようになったテーマを先取りしていると思う。三人の女子の妄想が炸裂しまくる、というのは『チャーリーズ・エンジェル』の先駆となるものだろうし、金髪で美人のせいで本当は頭も性格もいいのにただのバカだと思われている、というドラリー(ドリーの役ね)は『キューティ・ブロンド』のエルの母といっていいような役柄である。こういうことを考えずに「古くなっている」とか「女性のファンタジー」と切り捨てるような批評には非常に隠された性差別のにおいを感じる。男性のファンタジーを古典的な図式を使って描いた映画や舞台はたくさんあるのに(『アニマル・ハウス』とか)、なんで性差別に苦しんでいる女性のファンタジーを古典的な図式を使って描くとそれだけで価値が減ると思われるのかね?

 まあそういうわけで最後に「9時から5時まで」を歌うドリーの動画を。ドリーは結構整形してるらしいが、私が好きなドリーの名言は「こんだけ安く見えるには結構なお金がかかるの」である。