癒しとしての演技〜『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』

 『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』を見た。デンマークの歴史映画で、いわゆるいい意味でリヴィジョニスト的な歴史記述を心がけようとする試みなんだろうと思う。お話は英国から来たカロリーネ王女がデンマーク王クリスチャンと結婚するところから始まるのだが、クリスチャンは超精神不安定で全く妻に愛を示さず放蕩ばかり、デンマークは旧態依然とした貴族主義・男性中心主義・検閲が横行する社会で、イングランドでかなり開けた教育を受けてきたカロリーネには何の面白みもないつらいだけの場所である。ところが啓蒙思想に共鳴するドイツ人医師ストルーエンセがクリスチャンの侍医となると王室は一変。王の精神状態もやや改善し、種痘が導入により王子の命も守られ、これに勢いを得たストルーエンセは啓蒙思想にもとづく政治改革に着手する。最初は反発していたカロリーネだが、もともと教育のあるカロリーネはやがて知的なストルーエンセに惹かれて、愛人関係になって妊娠してしまう。改革に反発する貴族たちはカロリーネとストルーエンセの関係を書きたて、ストルーエンセを処刑しカロリーネを追放軟禁する。こうしてデンマークの改革は潰えたのであった…という話。

 私がデンマーク史に疎いので詳しく論じることはできないのだが、これたぶん一般的には性急な改革の失敗とか不倫スキャンダルといったネガティヴなイメージで語られる歴史の一部を再評価しようという話で、種痘に注目して啓蒙思想と公衆衛生政策のつながりを強調しているあたりとかも含めていい意味でのリヴィジョニスト的歴史記述を感じるのだが、ただそれにしてはちょっとテンポが遅いわりに書き込みが甘い(クリスチャンの病気の実態とか)ところも多く、意欲は買うがうまくいってるかというと疑問…というとこもあった。とはいえ、歴史ものとしては普通に面白いので見る価値はある。

 一番面白いのは、この映画に出てくる人々、とくに王室のメンバーには「自分は王を演じている」「王女を演じている」という意識が強くあり、クリスチャンが芝居好きだったりとか、役割を演じることの重要性が非常に強調されていることである。カロリーネは最初から自分の女性であり王族であるという立場に自覚的で、クリスチャンはそんな妻を「王妃を演じているだけ」だと形容する。ストルーエンセが改革を目指すため王をけしかけようとして「名君を演じるのです」みたいなことを言うとクリスチャンが「芝居か!いいな!」みたいなことを返すのだが、これはクリスチャンの精神に良い影響をもたらし、今までは座って閣議でぼんやりしていたクリスチャンが「王を演じる」べく、まずはストルーエンセやその仲間の書いた原稿どおりにしゃべる方法を学び、最後はちょっとしたアドリブもできるようになる(ストルーエンセ追放を阻止するところは目を見張るような演技力の進歩だと思う)。これは、実は人格というのは意識的な演技でできるものであり、良き演技は人が自分の人格を確立するために非常に役立つものである、という、かなりポジティヴなパフォーマンス観にもとづくものだと思う。この映画では、演技というのは自分を偽るとかいうようなネガティヴなものではなく、日常を健康的に過ごすために必要なものである。癒しとしての演技を軸に歴史を語るという点では、ひょっとしたら『ジャンゴ』と関心が共通しているのかもしれないと思う。しかしながらこの映画では自分の人格を確立するための演技と意識的な嘘はかなり区別されており、だんだんストルーエンセとカロリーネが不倫を隠し切れなくなって嘘にまみれていくあたりは痛々しいし、嘘を武器にする貴族たちの策謀はかなり汚いものとして描かれている。最後にストルーエンセが処刑されると、クリスチャンは癒しを失い、王らしく演技することすらできなくなってしまう。

 こういう演技のモチーフを強調するため、映画中には観劇の場面がたくさん出てくる。背景が次々に変わるバロックシアターを実際に見せる場面や、デンマークということでハムレットを観劇する場面などもあり、それぞれの芝居の内容が登場人物の心情を暗示したりするあたりも心憎い。リヴィジョニスト的歴史記述としてはちょっと詰めが甘いところもあると思うのだが、こういうところに注目してみるととても興味深いと思うし、シェイクスピアもたくさん出てくるのでシェイクスピアリアンにもおすすめである。