月に帰るクィアな処女〜『かぐや姫の物語』

 『かぐや姫の物語』を見てきた。話は誰でも知ってる『竹取物語』だし、絵画的な魅力の詰まった画面の処理とかフェミニズム的な物語、仏教的な要素などについては既にたくさんレビューが出ているのでもうあまり書くこともないだろうと思うのだが、ひとつ気付いたのはかぐや姫っていわゆるひとつの「クィアな処女」だったということである。今まで全然そういうことは考えたことなかったのだが、月の人で結婚を拒むという明らかな特徴があるのになんでそんなことに気付かなかったんだろう。

 「クィアな処女」(queer virgin)というのはTheodora A. Jankowski, Pure Resistance: Queer Virginity in Early Modern English Drama (University of Pennsylvania Press, 2000)に出てくる概念である。ジャンコウスキの定義によるとクィアな処女というのは'women who chose to resist incorporation into the sex/gender system as sexually active women by retaining their virginity beyond its “transitional phase” well into adulthood'「『過渡期』を越えて相当に大人になっても処女性を保つことで、性的に活動的な女性としてセックス/ジェンダーシステムに組み込まれるのを拒むことを選んだ女性」(p. 12)のことである。伝統的な異性愛秩序において女性は結婚までは処女性を保つように教えられるため、一見処女というのはそうした伝統的な秩序に合致する存在であるように思われるが、この規範はあくまでも「結婚まで」の処女性を求めるものであり、大人になっても結婚を拒んでずっと処女性を保ちたいという女性は異性愛中心主義的な秩序から逸脱した存在とみなされる(ゆえに「クィアな処女」であるわけである)。初期近代イングランド演劇に出てくる『尺には尺を』のイザベラやデッカー&ミドルトンの『女番長またの名女怪盗モル』に出てくるモルなどの女性登場人物を分析するときに用いられる概念である。ひたすら結婚を拒み、男たちにモノ扱いされることに抗うこの映画のかぐや姫クィアな処女なんじゃないかな?

 『かぐや姫の物語』に出てくるかぐや姫は山で自由に育ったが、よかれと思う竹取の翁の配慮(これは小さな親切大きなお世話の最たる例なのだが)で都に連れて行かれ、型にはまったお姫様教育を受けさせられる。映画の後半は、月経(月のもののおとずれ)を見たかぐや姫がとにかく性的な価値を品定めしてくる男に苦しめられるというもので、自分をモノ扱いする求婚者たちに対して難題をふっかけることで逃げようとしたり、強引に迫ってくる帝(いきなり入ってきてかぐや姫を抱きすくめる帝がマジ怖い)も拒む。で、帝を拒んだ結果として姫は月に帰ることになってしまうわけだが、西洋的な象徴体系では月というのは冷たい処女性に満ちたもので、狩りの女神である処女神アルテミスは月の女神でもある。かぐや姫を迎えにくる月の人々は仏教的な絵柄で描かれているのだが皆非常に女性性とか女性原理を想起させるような外見で、おそらく月の世界は男性中心・異性愛中心主義的な地上の世界とは全く異なる、「女の世界」として描かれているのではないかと思う。絵柄的には全然ギリシャ神話とは関係ないのだが、月経をきっかけに男たちから商品扱いされるようになったかぐや姫が全ての結婚を拒んで月に帰るというのは、やはりかぐや姫が女神アルテミスみたいな、男性との性交渉によって地上の秩序に組み込まれることがない永遠の処女であることを示しているのではないかと思う。

 またまた面白いのが、かぐや姫は内心では故郷の山で一緒に育った幼馴染の捨丸を愛していて、捨丸と一緒になりたいという願望をも持っていることである。捨丸を愛しているという点ではかぐや姫は「性的に活動的」である。既に捨丸は他の女とくっついて子どももいる父親になっているのだが、一方で捨丸は全て捨ててかぐや姫と逃げたいとも思っている。しかし、よく考えるとかぐや姫は以前の求婚者たちを口では女性に誓いをたてるが実は不実だ…ということで振ったこともあるので、もし捨丸がここでかぐや姫を選んで妻子を捨てたとしたら結局、かぐや姫は以前あれほどまでに拒んだ不実でふたしかな男女間の情念の世界に巻き込まれてしまうことになりかねない。しかしながらそうはならないのであって、かぐや姫は月に帰るという避けがたい運命に立ち向かう。最後にかぐや姫と捨丸が見る飛翔の夢は、現実には起こらなかった性交渉の夢による昇華を意味しているんだろうと思うが、これは非現実であるのでかぐや姫の処女性は保たれている。かぐや姫は「愛」という最大の処女性の危機を乗り越えたのだ。

 ちなみに、最後の最後に天から迎えにきた人達がかなり強制的にかぐや姫に衣をかけるところは、私は「男や家族のしがらみを断ち切るのにはこれくらいの荒療治が必要ってことなんだろうか…」と、なんか非常に暗くなりながら見てしまった。私はこの最後の描き方になんとなく「男たちの知らない女」とか『リキッド・スカイ』を思い出してしまい、やっぱり品物のように扱われるつらい地上よりは、面白みはないが情念から解放された清らかな月の世界のほうがかぐや姫のような女性にとってはマシっていうことなんだろうか…と思った。

 この映画はおとぎ話をフェミニズム的に再解釈しているっていう意味では『エバー・アフター』や『魔法にかけられて』なんかと一緒に見てもいいのかもしれないと思う。だいぶ内容も質感も違うが…あと、全然知らなかったのだが、2001年にClaireっていうアメリカ映画が出来てて、これはかぐや姫の翻案で、ゲイカップルが月の娘を養女にして育てるっていうクィア系そのまんまのテーマの映画らしい。これ、見たいな。