ポストモダンなメタ映画a.k.a.金かけたオタクの遊び、そして変ちくりんだがクィアではなく~『バビロン』(ネタバレあり)

 デイミアン・シャゼル(「チャゼル」表記が多いが「シャゼル」に近い発音らしい)監督の新作『バビロン』を見てきた。

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 舞台は1920年代末から1930年代初頭、サイレントからトーキーに移り変わるプレコード・ハリウッドの時代である。サイレント期からのスターであるジャック・コンラッドブラッド・ピット)、スターを目指す若手女優ネリー・ラロイ(マーゴ・ロビー)、映画界に入りたいと願い、ひょんなことからジャックのアシスタントになってだんだん制作側として頭角を現すマニー・トレス(ディエゴ・カルバ)の3人が主要キャラクターで、他にもいろいろと映画関係者が絡んでくる。長尺でわりといろいろなことが起こるのだが、簡単に言うとこの3人の栄光と衰退の物語である。

 全体としては、真面目な言い方で説明すると、映画と映画史に関するポストモダンなメタ映画、不真面目な言い方で説明すると金かけた映画オタクの遊びである(このレビューは全体的に辛口だが、この点については褒めてるつもりである)。映画というのは遊びなのだが、この映画は遊びについての遊びだ。過去の映画に対するオマージュがごっそり詰め込まれており、中盤くらいからしつこい『雨に唄えば』オマージュがあるな…と思ったら、最後の最後でこの作品は「『雨に唄えば』でネタにされてた人たちって実際はキツかったろうなー」というような映画オタクっぽい発想をもとにした『雨に唄えば』の二次創作であったことがわかる、という作りになっている。その点では超豪華なファンフィクションと言えるし、遊戯的な二次創作としてはけっこう面白い。

 ただ、「『雨に唄えば』でネタにされてた人たちって実際はキツかったろうなー」がベースにあるとしたら、それにしてはオチが緩すぎである。オチは『ラ・ラ・ランド』にそっくりなのだが、フラッシュバックだけではなく相当に特殊なフラッシュフォワードも使われており、かなり偏った基準でこの時点における未来の映画も含めたいろんな映画が走馬灯みたいに出てくる。しかしながら、私としては「そこでマニーがそんなに映画史をさらって感動するか…?」と思った…というか、この映画をストレートに受け取ると、『雨に唄えば』のスタッフ陣は、自分たちの先達が経験した過去の事実を面白可笑しくデフォルメして映画にし、当時の関係者を試写にも招待しないリスペクトのない奴らだということになってしまう気がするので、マニーはどっちかというと怒ったほうがいいんじゃないかと思った(リナがネリーだとしたら怒ったほうがいいだろう…)。こういう、なんかよくわからない強引な理屈で「良い話だった」ように見せかけるのは監督の以前の作品である『セッション』にも『ラ・ラ・ランド』にもあったので、シャゼルはなんかどうしても感動したいオタクなのかもしれない。

 そして私がこの映画、もっと言えばシャゼル映画について気になっているのは、シャゼルの映画の見方がよく言えば超個性的、悪く言えば一般的な映画史の理解からかけ離れまくっていて、その独特のこだわりがあんまり一般の観客にわかるような形で示されているわけではないので、見ていてピンとこないところがいっぱいあるということだ。映画史の理解が独特なのは別に悪いことではなく、クエンティン・タランティーノとかギレルモ・デル・トロは自己流の独特な映画史観を有しているが、それをけっこう一般客にわかるように見せてくれるのが面白いと思う。一方、シャゼルはたぶん自分の偏愛ポイントが他人にわかりづらいということについて自覚がないのではないかと思う。それくらい「ん?」と思うところが多い。 

 一番しっくりこないのは、シャゼルの映画はいくらでもキャンプになる要素をはらんでいるのに全くキャンプ感がないことだ。キャンプというのは説明しにくいが、まあ私が前に説明した言葉を再利用すると、「ナチュラルさやリアルさを拒否する過剰でわざとらしい演劇性を評価する感覚」で、多くはクィアコミュニティで育まれた美意識である。シャゼルが『バビロン』で参照したのはハリウッドミュージカルや、サイレント末期からプレコードの時代のスター女優が出演していた映画などであり、どれもとてもキャンプなスタイル美学に基づいていて、クィアな感覚に支えられて受容されてきている。つまり、この種の映画というのはセクシュアルマイノリティのコミュニティで人気があり、「キャンプなところがいいよね」みたいな受容が広く行われているものだと思う。しかしながらシャゼルがこういう作品の要素に注目して増幅するやり方が通常と全然違う…というか「そこじゃない」感が強く、キャンプ要素がゼロになって、なんか変ちくりんなのだがクィアではない、妙なスタイルの世界が登場する。

 たとえば『バビロン』には、マレーネ・ディートリッヒが『モロッコ』で男装して女性にキスする有名な場面の再現がある。ただしここでは場面を再現するのが東アジア系の女優としては初のハリウッドスターであろうアンナ・メイ・ウォンがベースのキャラであるレディ・フェイ(リー・ジュン・リー)で、マレーネもアンナもキャンプな女優なのでフツーに再現すればすっごくキャンプになってもおかしくない。ところが『バビロン』のこの場面は間とかタメの作り方がわざとらしすぎて、『モロッコ』とは似て非なるものになってしまっている。『モロッコ』のキスの場面は、マレーネがまるで日常的な挨拶の延長みたいな感じで素早くユーモアを交えて女性客にキスするのがセクシーで、この過剰な演劇性を伴うパフォーマンスが、サラっといつもやってるなんでもない行動みたいなやり方で提示されるギャップにキャンプな味わいがある。ところが『バビロン』はそういうもとの場面の妖艶さ、自覚的な演劇性みたいなものをあんまり丁寧に取り入れておらず、表層だけ「これカッコいいよね!」みたいな感じで真似ている。

 もう一つ例をあげると、ネリーが着ているドレスがだいたいあんまりオシャレじゃない。冒頭でネリーがパーティに入り込む場面で、ネリーは赤くてやたらスカートが短いホルターネックのドレスを着ているのだが、1920年代末にネリーみたいな女性がこんなホルターネックをこう着こなすかな…とかなり疑問に思った。どうもシャゼルとそのスタッフは布が少なければマーゴ・ロビーがセクシーに見えると思っているみたいなのだが、ネリーは後でセリフで説明されるように、胸がなくてほっそりしているがセクシーだという設定のハリウッド女優である。そういう設定の女優ならああいう胸がないのが目立ってしまうホルターネックを着てパーティには行かないと思う…というか、上半身にはキラキラ系のアクセサリーをつけるかラメっぽい生地、下半身はもっと長いスカートが目立つドレスを着て、オッパイがないのをごまかしつつ、スレンダーなスタイルが目立つような着こなしをするのじゃないかと思う(このルイーズ・ブルックスとかジーン・ハーロウみたいなドレスのほうが似合うと思う)。この頃のハリウッド女優のグラマラスなドレスというのは、どちらかというと生地に透け感があったり、色が微妙で肌と同一化していたりするような作りで、光沢のある布がすべすべしていたり、ボアなどの飾りがふわふわしてたりするような触感が画面から感じ取れるところに色気があると思うのだが、『バビロン』はそういう衣服の工夫があんまり見られない。こういう服装に関するこだわりの欠如みたいなところも、キャンプさを減らす要因になっている気がする。

 ただ、シャゼル的にはちゃんとレズビアンや非白人を出そう…という良心的なこだわりみたいなものはあり、さらに何か自分特有の「こういうのがカッコいいだろう」感もあるみたいなので、そのへんがあらわれているところはある。レディ・フェイがやたら歌で「プッシー」を連発したりするのは、おそらく美的にピンときていないから直接的なやり方でクィアな人たちの存在を表現しようとしているのだろうと思う。あと、シャゼルは『ファースト・マン』でも嘔吐を父娘の感情的絆をあらわす象徴みたいに使っていたが、よっぽど嘔吐が好きなのか、本作でも嘔吐を抵抗の象徴として使っている。正直なところ、シャゼルは自分の独特な映画観をわかりにくく提示するよりもゲロを撮ったほうが面白いのではないかと思った。