アデルをあんな顔にさせたのは、アートなあなた〜『アデル、ブルーは熱い色』(ネタバレあり)

 『アデル、ブルーは熱い色』を見てきた。

 高校生のアデルとアーティストのエマの恋を長いスパンで描いた恋愛もので、三時間もある。セクシャルマイノリティのヘヴィな恋愛を長い期間にわたって描いた大作ということでは『わたしはロランス』にかなり似た感じだと思う。効果あるとは思えない手持ちカメラの多様とか、もうちょっと刈り込んでもいいんじゃないかと思う長さとか、若干キザっぽいアートハウスな撮り方とかも『わたしはロランス』とけっこう共通している気が。ただ、手持ちのブレが効果をあげてないっていう点では『わたしはロランス』より『アデル』のほうがさらにキザっぽくて良くなかった気がするな…

 巷では女性同士の激しい性描写が話題らしいのだが、正直見た目キレイだけど長いしかなり理想化されてる感じで飽きるので、もっと刈り込むか、あるいはあそこだけすごく不自然で速い編集とかにしたほうがよかったんじゃないかという気が…全体的にじっくり顔を撮って会話を見せるっていう撮り方なのだが、性描写の場面もカメラ固定して同じ調子で撮ってるので、キザっぽく映像に凝ってる映画にしては変化が無いと思った。「親に会いに行く→良い子にしてるのに疲れてセックスする」が2回繰り返されるところは笑ったので、ああいうのはいいと思うんだが。

 しかしながらこの映画が本当にすごいのは性描写とかが少なくなり、階級とライフスタイルの話が前面に出てくる後半部分だと思う。学校を出て幼稚園の先生になったアデルは、アーティストとして出世街道を狙うエマと一緒に暮らすようになり、いつも創作で忙しいエマのため料理作ったり家事をしてあげるようになる。エマがアーティストたちを呼んでハウスパーティを開くというのでアデルが料理を作ってあげるのだが、パーティに来たお客たちはすごいインテリやアートっぽい連中、あるいは画廊経営者みたいなポッシュな人ばかりで、地味でワーキングクラス出身のアデルはひとりですごく浮いてる気分を味わう。アートの話にも加われず、料理が行き届いてるかばかり気にして、楽しむこともできないのにパーティのお客たちから「エマのミューズ」としてだけは礼賛されるアデルの寂しそうな顔がすごくリアルだ。なんかみんなアデルに感情移入してアデルかわいそうだと思うんだろうが、私はこの場面を見た時、昔全然そっち系じゃない勤め人の男の子をアートイベントに連れて行って、その人がアーティストさんの前で全然空気読まない発言して自分が焦った時のことを思い出し、「あ、ひょっとしてあの人はあの場でこの映画のアデルみたいな存在だったのかも…」と思ってすごい暗い気分になった(つまり私がエマだったわけである)。いやべつに私もそんなにアートイベントとか得意なほうじゃないのだが、アート系とか、学術系でも芸術研究系の人って、芸術が最優先であることに何の疑問も抱かないから、思わぬところで愛する人にアデルみたいなひとりぼっちの気分を味わわせてることってあるんじゃないだろうか…そう思うとほんと自分を省みざるを得なくなった。

 よく考えると前半から階級・ライフスタイルの話はいろいろ伏線が張られていた気もする。アデルがエマの親(ポッシュな感じで牡蠣とか出してくれる)のところに行って「先生になりたい」というと「自由に好きなことをやりなさい」とおフランスな感じの助言をされる一方、エマがアデルの親(ワーキングクラスな感じ)のところに行くと「地に足の着いた仕事が大事だよ」と言われるという対比がまず一番大きい伏線だと思う。あと、アデルは歯を矯正してないのにエマは歯並びがいいとか、そのあたりの細かいところも二人の階級差を暗示しているのかも。