アメリカ人がヨーロッパで脳天気に『グラン・トリノ』を撮る〜『グランド・ブダペスト・ホテル』

 『グランド・ブダペスト・ホテル』を見てきた。私、たぶんウェス・アンダーソンの映画って『天才マックスの世界』しか見てないような気がするので、二本目ってことになる(っていうかなぜ『天才マックス』しか見てないんだろ…)。

 舞台は東欧の架空の国、ズブロフカ。ここは昔は帝国の中心地、そのあと共産圏、今は東欧のまあなんかああいう国、ということらしい。1930年代に威容を誇ったグランド・ブダペスト・ホテルの運命を、伝説のコンシェルジュであるムッシュ・グスタフ(レイフ・ファインズ)とそのロビーボーイ、ゼロ(トニー・レヴォロリ、年取ってからはF・マーレイ・エイブラハム)を中心に、殺人事件や恋愛話を絡めて語る、というもの。タイトルに「ホテル」が入っているが、所謂グランド・ホテル形式の話ではなく、ホテルの従業員を中心にした物語である。

 この映画の面白いところは時系列である。基本的に、この映画には以下四つの時間の層がある。

A. 「現在」 視点人物…「読者」
 少女が出てきて、作家の像を見ながら『グランド・ブダペスト・ホテル』という小説(回想録に近いものだが)を読もうとしている(冒頭と結末部分)

B. 「執筆時点」 視点人物…「作者」
 「作者」(無名、トム・ウィルキンソンが演じる)が小説を書く時点。これは少し曖昧で、いくぶん無時間的な表現がなされている。この「作者」が過去のことを思い出すことで小説が始まる。

C. 「1968年」 視点人物…「作者」
 若き「作者」(ジュード・ロウ)がさびれたグランド・ブダペスト・ホテルのオーナー、ゼロ・ムスタファ(エイブラハム)に会い、昔話を聴く。「作者」の回想内の時間。

D.「1932年」 視点人物…ゼロ
 若きゼロ(レヴォロリ)とグスタフを中心に、グスタフが富裕なホテルの常連女性を殺害した疑惑をかけられたり、ゼロが菓子職人アガサ(シアーシャ・ローナン)と恋愛したりする様子が語られる。物語の中心をなす部分で、ゼロの回想内の時間。

 全編の構造は、これがだいたいA→B→C→D→C→D→B→Aみたいな順番で並ぶものになっている。たまに各時間層に行き来があり、とくにCとDに行き来があるのだが、基本的には新しいほうから古いほうに動いて最後は新しいほうに戻ってくる、というキレイな枠の閉じ方になっている。

 これ、普通にホテルの話を撮りたいんならこんなもってまわった時間層を設定する必要は無くて、C→DだけでもOKだと思うのだが、Aの時間まで設定した、つまり末端の読者まで視野に入れてるっていうところにこの映画が伝えたいメッセージがかなりよく出てるんじゃないかと思う。Aに出てくる十代の少女は全ての「読者」、あるいは現代の時点で映画を見ている観客全てを象徴する存在であり、これは「何世代もかかって引き継いできた話を今、目の前にいるお客さんに届ける」というコンセプトを伝えるために置かれている時間層だと思う。おそらく「作者」に名前がないのは、この「作者」が著作する全ての者、お話を語り伝える役を担うあらゆる人々を象徴しているからだ。4つも時間層を設定することで、『グランド・ブダペスト・ホテル』は、時の流れに抗って物語を伝えることの重要性を訴えている。

 こういう複雑な時間層を設定してまで伝えたかったものは何か、という話だが、まあこの『グランド・ブダペスト・ホテル』はヨーロッパの継承がテーマの話だと思う。とはいえ、継承されるヨーロッパの内実は全くリアルなヨーロッパではなく、ものすごくハイブリッドで理想化された空間としてのヨーロッパである。スブロフカは東欧の国なのにアルプスがあって、美味しいお菓子や伝統ある建物には事欠かず、なぜか皆英語をしゃべっているがドイツ語やフランス語も使われており、カトリック修道院が栄えていた華やかな帝国の中心地から社会主義国になって、おそらくは地中海やインド方面からやってきたのであろうムスリムとかもフツーに住んでて(ホテルのコンシェルジュムスリムがいたりする)、人々の往来の中心地であるオープンな場所だ。おそらくこういう魅力がいっぱいつまった空間としてのヨーロッパというのはアメリカ人の頭の中にあるヨーロッパであって(監督のウェス・アンダーソンアメリカ人だが、シュテファン・ツヴァイクを読んでこの映画作ったらしい)、ヨーロッパ人はこういう映画は撮らないんじゃないかと思う。あまりにも「ヨーロッパ」のイメージがひとつのホテルにごちゃまぜに圧縮されていて、まるでのヨーロッパは想像力の箱庭のようだ。

 しかしながらこの理想化されたヨーロッパを受け継ぐのは国籍不明の難民であるゼロだ。このあたりの作りは、よそから来た若者が移民先の地域の伝統を受け継ぐ者となるという点でイーストウッドの『グラン・トリノ』にそっくりだと思う。ただ、まあアンダーソンがアメリカ人だからっていうところに全部帰着させてはいけないのだろうが、『グラン・トリノ』に比べるとこの映画で描かれているヨーロッパの継承はかなり脳天気だと思う。その分、気楽に楽しく見られるのはいいけど。

 このヨーロッパを肯定できるかできないかでこの映画の好き嫌いは決まると思うのだが、私はまあ面白いとは思ったけど、こういうノスタルジアと理想だけで出来ているヨーロッパを執拗なフラッシュバック内フラッシュバックで継承させるっていう作りはそんなに感心はしないかなぁという気もする。末端にいる読者を設定するというのはすごくいい試みだとは思うのだが、なんていうか…やっぱりこれはアメリカ映画である。