現代版『ミカド』、そして反猫映画というものがあるとしたらこれだ〜『犬ヶ島』(ネタバレあり)

 ウェス・アンダーソン犬ヶ島』を見てきた。

 舞台は近未来の日本っぽいどこかの街、メガ崎市である。犬の病気が蔓延し、小林市長は犬たちを孤島に追放する。ある日、そこに小林市長の養子であるアタリという少年が小型飛行機でやってくる。アタリは追放された自分の用心棒犬、スポッツを探していた。

 公開されてすぐ、アメリカでは差別的だという批判があったということでちょっと身構えて見たのだが、実際見てみると、アンダーソンはまったく現実をリアルに描けなくて、もやっとフィクション化・理想化してしまう監督なので、まあこうなるだろうなという感じだった。初期作『天才マックスの世界』の学校ですら妙な感じでフィクション化されていたし、『グランド・ブダペスト・ホテル』でも、もやっと理想化された幅広いヨーロッパみたいなものが出てきていたが、ここで出てくるメガ崎も同じようにもやっと理想化され、虚構の都市として構築された日本である。この「もやっと」というのがポイントで、『ベイマックス』のサンフランソウキョウみたいにきっちり計算されたファンタジー的なハイブリッド都市になっていれば見ていてすっきりするのだが、アンダーソンはたぶん自分が今までに見た古典の日本映画からキッチュなコンテンツまで、いろんなものを脳神経の隙間に雑多に詰め込んでおいて、いざという時にその頭のおもちゃ箱をひっくり返したみたいな感じでぶちまけて理想化しているので、相当にクセがある。このクセが見ている人を遠ざけるのだろうと思う。私はとくにイヤだなとは思わなかったが、この計算されてないもやっと感になんともいえない浅薄さを感じ取る人がいるのはなんとなくわかる。

 ただ、よく考えると、このメガ崎は日本だとかなんとか言ってるけど実はアメリカなんだろう…という気がする。病気で汚いからといって隔離され、もとの家族と暮らすことができなくなっている犬たちは、アメリカで凄まじい差別にあっている移民を象徴すると考えられる。犬たちが犬ヶ島からメガ崎に戻ってくるのは、移民など現在のアメリカでつらいめにあっている人たちに自由と権利が戻ってくることを暗示しているのだろう。一方でこの映画では猫の描き方がかなりひどく、たぶん反猫映画っていうものがあればこれはそうだろうと思うのだが、猫というのはまるでドナルド・トランプみたいな小林市長をはじめとして、不当な権力にすり寄り、移民を排斥する人々と結びつけられている。おそらくこれは反猫映画にかこつけた辛辣な政治諷刺なのだろうな…と思う。都市空間が理想化されているわりに、敵役の連中はもちろん、アタリやトレイシーのような犬好きたちもあまり理想化されていないのは、諷刺映画として見るとちょっとシニカルだ。犬一匹一匹は素晴らしいが、犬たちに選ばれた政治家はまあまともなところもあるけど完全無欠ってわけでもない。

 そういう点では、この映画はギルバート&サリヴァンの『ミカド』の正統な後継者と言える。『ミカド』に出てくる日本の都ティティプーは、誰が見ても明らかに当時のロンドンだし、話は全部「日本だから!日本だから!」とごまかしながらイギリスの習慣を諷刺するものだ。『犬ヶ島』も「日本だから!日本だから!」とやっているが、話は明白にアメリカ政治の諷刺である。

 なお、この映画がベクデル・テストをパスするかはかなり微妙である。トレイシーとおばさんの牛乳についての会話でパスすると思うのだが、おばさんが名前のある登場人物としてカウントされるかが難しい。また、ヨーコとトレイシーの会話は男性についてのものと言えるか言えないか、判断がけっこう困難だ。