映画史上最もセクシーでない非モテ踊りとしてのモダンダンス〜『フランシス・ハ』

 『フランシス・ハ』を見てきた。

 ヒロインは27歳なのにまだダンスカンパニーの実習生で定職がなく、親友ソフィとべたべたしているフランシス。ところがソフィがニューヨークのもっといいエリアに住むため出て行ってしまい、金欠のフランシスはいろいろなところをうろうろ泊まり歩きつつ、少しだけ人生に向き合って…という話。

 これ、前編モノクロのオシャレな映像といい、たいした事件も起こらないのに機知に富んでいて爽やかな展開といい、やたらに自然な主演女優グレタ・ガーウィグの演技といい、すごくよくできた面白い映画だったと思う。のだが、すごくよくできていて面白かった分、個人的にけっこうよくわからないところが多くてそんなにのれなかったかなぁ、と…

 まず、最初のフランシスとソフィのベタベタした距離感が全然わからなかった。ああいうふうに携帯でしょっちゅう電話するのか…とか、フランシスがソフィと離れられないから男と住めないと言ったりとか、電話が嫌いで人間嫌いな私にはちょっとわからない世界である。いやまあああいう女性もいるんだとは思うが…さらによくわからなかったのはパッチのキャラクターで、人前でのソフィに対する態度といい、ソフィに仕事やめて日本についてこさせるところといい、私にはかなり困った男みたいに見えたのだが、この映画のオチでは別にパッチはそんな悪い人じゃなかった、みたいなことになっている。
 
 ちなみに、この映画ですごく面白いと思ったのは、モダンダンス=デートできなさ(undateableであること)の象徴みたいな扱いになっているところである。フランシスはしょっちゅう、親しい男友達であるベンジーにundateableだとからかわれていて、自他共に認める非モテである(訳語の適切さはともかく、字幕は「非モテ」となっている)。普通、映画の記号としてはダンス=モテだと思うし、この間のニック・フロストが出てた『カムバック!』とかはまさにそれで、ただダンスに打ち込むと最初はモテが目的でもそういうことはどうでもよくなってくる、みたいな要素が描かれていた。ラテン系のダンスっていうのは『レッスン!』なんかでもそうだが、常に炸裂するエロティシズムと熱い情熱の象徴であって、まあエロティシズムが炸裂しているので当然踊り手はモテる。『ダーティ・ダンシング』や『フットルース』においても、踊りというのは常に情熱的でセクシーな自己表現である。このへんの映画においては自己表現=セクシー、みたいな定式があるように思う。ところが『フランシス・ハ』におけるモダンダンスというのは、美しいし独創的だがちっともセクシーでない。モダンダンスでしかもなかなか芽が出ないフランシスがセクシーじゃないのは当然なのだが、とはいえフランシスは自己表現さえできれば別にセクシーでなくてもいいと思っているところが魅力でもあるので、これは正しい描き方だし十分効果をあげていると思う。しかしながらアートで全然セクシーじゃない芸術としてのモダンダンスっていう表現は、他のラテン系のダンスなんかとあまりにも違っていてちょっと興味深い。