個人的なことは、政治的ではないのか〜『透明な隣人 〜8 -エイト-によせて〜』

 フェスティバル/トーキョー2014の演目である『透明な隣人 〜8 -エイト-によせて〜』を見てきた。演出家の西尾佳織さんもドラマトゥルクの岸本佳子さんも私の知り合いである。既に原作『8-エイト』を同じスタッフで上演しており、そちらも私は観ていて感想も書いたので、『8』に関する詳細は省略するが、『8』は『ミルク』の脚本家で今はトム・デイリーと付き合ってるダスティン・ランス・ブラックが書いた作品で、アメリカのカリフォルニア州同性婚を禁じる住民投票である提案8号の違憲性が争われ、結局違憲とされた裁判を主題にした朗読劇である。今回の『透明な隣人』はそれをもとに演出家が書いた新作で、日本を舞台にレズビアンやゲイの暮らしを描くものである。

 それで、とりあえずまず箱が良くなかったと思う。アサヒアートスクエアで上演されたのだが、横に長いフラットなスペースに大きな柱が二本くらい建っており、たいへん音響が悪い。私は右端の席だったのだが、左端で話されている台詞は非常に聞き取りづらく、とくに前半部分の永未(ヘテロセクシャルの女性の登場人物)の台詞はほとんど聞き取れなかった(これはちょっと役者の滑舌にも問題あるのかもしれない)。またまた柱のせいで二階部分で展開するアクション(そんなに多くはないのだが)はほぼ全く見えなかった。全体的に客席から見えない場所ができやすい小屋だ。

 内容としては、『8』よりはだいぶ演出家や役者の素質に合った芝居になっており、見やすかったと思う。『8』はプロパガンダと言われてもいいからとにかく今言っておかないといけないと思うことを表現する、というコンセプトの大変政治的な演目であるにもかかわらず、日本版は非常に非政治化された演出で私はそこが気に入らなかったのだが、今回の『透明な隣人』は、とにかく政治的な演劇は苦手なので個人レベルのいろいろな関係に話を落とし込んで、同性愛者のカップルの暮らしや考え方を日常の中で考えるというようなものになっている。拒食症の娘がいるレズビアンカップルを中心に据え、舞台上で料理を実際に作ったり食べたりするという演出は、そうしたドメスティックな領域に話を落とし込もうとする努力だと思う。

 ところが、最後のほうで『8』との関連が出てきて同性婚に対する言及が出てくるあたりからうまくなくなるというか、本当にこのスタッフは政治的なお芝居が苦手なのだろうな…と思ってしまった。急にSFっぽくなったり、同性婚についてのインタビュー映像(非常に類型的な同性愛差別コメントなどが出てくる)が出てきたり、ゲイの登場人物である雷蔵同性婚よりも自分の好きな人のことを…みたいな話をしたりするのだが、このあたりの話の持っていき方は正直ちょっと類型的すぎてあまりうまく機能していないと思ってしまった。まあ雷蔵みたいに政治的領域よりも個人生活を重視したい、そっちのほうがリアルだと思う、という人は日本にもアメリカにもいると思うのだが、私の考えでは政治を語るのに最も適したインタラクティヴな総合芸術である演劇(←これは異論あると思うが、演劇はもっとも議論に近い芸術だと思うので)がわざわざ公的及び政治的な領域を拒否して個人生活に引きこもるような作りって全然、面白みはないと思った。このあたりの政治的な話は全部なくして、拒食症の娘の話にフォーカスしたほうがよかったんじゃないかと思う。
 
 と、いうことで、私はちっとも政治的ではない日本の演劇にはあまり好意的ではないのでこういう感想になってしまったが、そうは言っても政治アレルギーの人たちにはこのくらい穏当にしないと考えるきっかけにすらならないのかな…とは思う。私は婚姻制度には反対なのだが、そのへんを除いてもちょっと穏やかすぎる芝居ではあったように思う。