2014年コンテンツ文化史学会

 2014年コンテンツ文化史学会のシンポジウム「コンテンツ文化史研究を世界に拓く —ヨーロッパ・アメリカ編」に参加してきた。一応、内容はツダったので下のtogetterにまとめておいた。

2014年コンテンツ文化史学会<シンポジウム>「コンテンツ文化史研究を世界に拓く —ヨーロッパ・アメリカ編」

 今回こちらに参加したのは、「コンテンツと歴史認識」のポスター絵に対して私を含めて何人かの研究者が批判を行い、実行委員長で私の知人でもある柳原さんがそれに対してシンポジウム内で応答をされるという連絡をもらったからである。

 とりあえず私を含めた何人かの研究者の意見は、「コンテンツと歴史認識」というタイトルとこうした絵を組み合わせるのはかなり学問的に問題があるということであった。政治史や文化史の研究において、歴史認識の問題は従軍慰安婦などの戦時性暴力はもちろん、良妻賢母とか、女性の純潔を守る男性像とか、国家に尽くす若い女性の理想化とか、性にまつわる政治が最も問題にされる研究分野である。そこにミニスカートから足が見えている若くて美しい女性をアイキャッチに用いるようなデザインを持ってきたら、歴史研究としては当然、本気で先行研究を読んで性差別やプロパガンダの問題について議論する気があるのか疑わざるを得ない。例えば少し前にアングレーム国際漫画祭歴史修正主義団体が漫画を宣伝しようとした際、やはり若くて美しい女性がマスコット的に描かれていたことが指摘されていたが、プロパガンダと女性像というのは文化史の研究においては過去から現在までずっと続いている、最も火種になりやすい論点である。この論点を無視し、マスコットとしての若く美しい女性像を無批判になぞっているような絵柄を「コンテンツと歴史認識」というタイトルのポスターで出してしまった、ということは、学会が文化史研究としての質を担保する気があるのかという疑問につながる。

 ここで確認しておきたいことがひとつあるが、私その他数名の研究者は、別にポスターが萌え絵だからとか、絵自体のセクシーさに問題があるという指摘をしているのではないということである。問題にしているのは絵柄とタイトルの組み合わせであって、例えばこういう感じの絵柄でテーマが「読むことと親密さ」だったり、あるいはそのままのタイトルかつ同じような作風で「上杉謙信に扮した若い女性」が描かれていたりしたんだったら、絵とタイトルが密接につながっていて何を問題にしたいのかわかるので、そんなに批判は起きてないだろうと思う。まあ、「やたらと歴史コンテンツに美人やイケメンばかり登場させることの弊害」とか、「基本的に大人が出る学会で、おそらく未成年の女性がミニスカートをはいている絵をポスターにするのは実はかえって子どもや若い女性を学問から遠ざけるのではないか」とか、「この手の絵柄は既に各部門の広報に使われすぎていて陳腐でダサい」とかいう批判はあり得るだろうが、少なくともテーマに沿った絵柄のポスターを出していれば、学会の研究の水準が疑われたりするようなことにはならないだろうと思う(私は学会広報などからセクシーな表現を全部排除しなければいけないとは思ってないのだが、まあこのへんは異論あるかも)。逆説的なことを言うようだが、基本的に学会というところは「学問の自由」をもとに人々が集まっているにもかかわらず、無条件な「言論の自由」は存在しない…というのも、学会というのは査読や審査、場合によっては試験によって学術研究としての信頼性を担保しているので、学会の外にあるものよりもはるかに厳しいクオリティコントロールが行われていなければならないことになっている(だから皆論文をリジェクトされまくるし、落第もする!!)。
 
 で、当日の柳原さんの解説は、かなりこうした論点を共有するものであったと思う。わりと駆け足な解説だったので私の理解にいくぶん不足もあるかもしれないが、基本的に実行委員会のほうとしては、絵そのものに問題があるとは思っておらず(上に書いたようにこれには私もだいたい同意する)、今回の学会では歴史認識という論点を戦争や差別ではなく娯楽などの幅広い分野に拡大して議論をするつもりでこのポスターを作った。しかしながら研究者としては絵とタイトルに齟齬がありすぎるし(これはむしろ「絵よりはタイトルのつけ方に問題があった」という話になると思う)、また歴史認識の議論で差別やプロパガンダの話が絡んでくるのは当然なので、いろいろな研究者からの批判を受けて「ポスターを見ている人を描き込む」という修正を依頼したがギリギリすぎて間に合わなかった…ということであった。柳原さんは「本気を示すには」「センスの悪さを克服するには」という話をしていたので、おそらくは「コンテンツ文化史学会が本当はどういうことをやりたいのかということが明確に示されていないまま、見た目のインパクトだけは強いがタイトルとの結びつきが不明確で齟齬のある絵をポスターに使ってしまった」ということだろうと思う。これについては今後の出版活動など地道な努力によって研究内容の向上と普及を行いたいということだった。この説明は私はだいたい筋の通ったものだと思うので、口頭での質問等はせず、要望用紙に今回の学会について、「研究のクオリティの問題だということでは認識が一致していると思いますし、誠実な対応だったと思います。なお、否認主義的発言をされている方が学会ポスター擁護の煽りをしていましたが、そうした雰囲気に惑わされない研究を頑張ってください」というようなことを書くだけで終わりにした。

 その後の研究発表だが、私の関心分野に一番近かったのはマティアス・ファイファー「通俗化への怖れ —ドイツのコンテンツ文化とファシズムの関係」で、まさにこれはナチスプロパガンダがいかに人を魅了するかという話や、ナチズムの過去を扱ったドイツの歴史ものがあまりにも若者の犠牲などに焦点をあてたメロドラマになってしまって歴史認識を考える際の拠り所として機能していないという問題などを論じたもので、このポスター問題にかなり近い論点を含む話だったと思う。個人的にはドイツにおける『イングロリアス・バスターズ』評価の話が面白かった(ドイツでは批評家に不評だが、クリエイターなどには一定の評価があるらしい)。ただこの発表だけえらい長くて押しまくったので、ちょっと最後散らかった感じがあり、どっちかというと文章で見てみたい。