弱い君主とジェンダー/セクシュアリティ問題〜さいたまネクスト・シアター『リチャード二世』

 蜷川幸雄演出、さいたまネクスト・シアター『リチャード二世』を見てきた。

 演出にはいろいろ面白いところがたくさんある。車いすのご老人たちと若者の対比および調和とか、奥行きや傾斜の使い方とかは見ているだけで興味深い。しかしながら、以前デイヴィッド・テナントの『リチャード二世』を見たときもそう思ったんだけど、そもそも私はこの作品が好きではないのかも…ダメな王が退位してつらいとか、なんか私には全然興味が持てない題材なので、まあこれを面白いと思う人がいるのはわかるが私向きの紅茶ではない。

 あと、もう一点この戯曲に関してすごく疑問に思っているのは、「弱い君主」を表現する時にどういうわけか「男性性」の剥奪が全面に出てきてしまうという問題である。デイヴィッド・テナントのリチャード二世は髪が長くてすごくアンロジェナスで、身のこなしなども明らかに伝統的な意味での「女性」に近い王として演じられていた。一方、このさいたまの上演ではリチャード二世(内田健司)がバイセクシャルで、あられもない格好で臣下の若い男たちとタンゴを踊り、明白に性交渉を連想させるような演出もいくつかある。これ、このプロダクションについては、若い臣下の男性の肉体への耽溺というのがかなり強く君主としての男性性、ひいては王としての適性の欠如と結びつけられていると思うのである。なんというか、こういうのって安易だと思うのだが…君主の弱さをなんらかの「男性性」の欠如みたいなものとして描く演出が、私が見た『リチャード二世』のプロダクションに続けて起こったというのは興味深いが、一方で頭が痛い問題でもある。女性っぽかったり同性愛者だったりするのは政治家としての能力と関係ないと思うのだが、『リチャード二世』の表現においてはそういうのが君主としての偉大さの欠如に安易に結びつけられてはいないか。