稀に見る流動性映画〜『恋人たち』

 橋口亮輔監督の新作『恋人たち』を見てきた。通り魔に妻を殺された男、自分の関心の無い夫と郊外で暮らしている妻、ゲイの弁護士の3人の生活を並行して描く作品である。

 とにかく気合いの入った作品で、独特のリアリズムが全体をつらぬいており、ちょっと実験的でもある。おそらく完全に現実に近づけているというわけではないのだが、自分語りとかちょっとした表情の強調とかあまり現実にはなさそうなことを織り交ぜつつ、やたらに散らかった部屋とか、ゴミゴミした街路みたいなありふれた背景をバックに、見ている人の生活感覚をぐいぐい喚起してくる演出を使っているせいだろう。最初は出てきたどの人物にも全く感情移入できず、どっちかというとみんなやな感じの人たちに見えるのだが、だんだん背景が明らかにするとともに登場人物の人間味を増し、ぐんぐん観客を中に引き込んでいく作品だ。一方でたまにご近所のごたごたをのぞき見しているような変な気分になることもある。

 ただ、正直女性の描き方はあんまりうまくない。サトシの妻はやたら薄っぺらくて独善的な女性として描かれているし、あと瞳子が夫に暴力を振るわれたのに、最後「子どもができてもいいじゃないか」と夫に言われて丸め込まれてしまうあたりは全然ダメだったと思う(一応、美女水のボトルをつぶすところでベクデル・テストはクリアしているかな?)一番よくできているのはゲイである四ノ宮のキャラ造形で、こいつはとにかく薄っぺらくて傍若無人で思いやりが無く、おそらくは性別・性的志向問わず普遍的に幅広く存在しているイヤなヤツ像を煮詰めたような男である。ところが、最後に近づくに従ってこの四ノ宮が非常に生活の中でよくありそうな、だがものすごくひどい差別を受けて苦しむところを見ることになる。一番愛し、信頼していた相手がサっと差別意識をのぞかせる時のみぞおちが冷たくなるような感じがものすごくよく出ている。このあたりは役者のキャラと台本が見事にマッチしており、こんなにイヤなヤツだけどやっぱり本当にかわいそうだし気持ちがわかるし、なんか自分にちょっと似ている気すらしてくる…というような気分に襲われる。

 全体的に、この映画で一番感心したのは液体のモチーフを上手に使っているところである。いたるところに水流が登場し、水が流れることが暮らしがきちんと前に進んでいくことと重ねあわされている。川、放尿、血液、風呂、ペットボトルの水などいろいろな流れる液体が登場するのだが、非常にきちんとまとまった象徴的体系の中で水の流れが描写されていて、考えてるなーと思った。
 川は主にアツシのエピソードに出てくる。妻を通り魔に殺されたアツシは川船に乗って橋脚をチェックする仕事をしているのだが、途中で精神的にどん底に陥った時は船に乗らずにずかずかと歩いて川に入っていて、「全部ぶっ壊れてる!」と良いながら古い橋脚にバツをつける。ここはアツシが船に乗らずに歩いて川に入るということで、アツシの人生がちゃんと流れていないことを暗示している。最後にアツシはなんとか生活に復帰し、また船に乗って橋脚のチェックをしたあと、空を見上げて「よし」と言うのだが、映画の最後に川の流れの映像が映るのは、いろいろつらいことがあってもなんとか続いていく人々の人生を象徴していると思う。
 また、この映画ではなんか「お手洗いでないところで放尿すること」が解放の契機になっている。瞳子が養鶏場の山の上で景色(本当はそんなにキレイじゃない)に感心しながら放尿するところは、不倫相手に口説かれた瞳子の心の高まりを表している。一方でアツシが立ちションしているカップルを見て生前の妻を思い出すところがあるのだが、ここもどっかそのへんのお手洗いでないところで体の中の水を流すことが、愛を外に向けて開放することみたいに描かれている。
 血液は二回、登場していて、そのうち一回は風呂と絡んでいる。風呂好きらしいアツシは冒頭のほうで一回、アヒルを浮かべてゆっくりお風呂に入るのだが、その後の場面で、風呂場でカミソリを用いて手首を切って自殺を試みる。ここでなかなか手首を切れないという描写があり、これは血流を差し止めること=暮らしの流れを止めることへの恐怖がよく描かれていると思う。また、瞳子の不倫相手である藤田がシャブを打とうとして血管を浮き上がらせるために腕に布を巻こうとして全然うまくいかない様子をしつこく撮る場面があるのだが、ここは普通に流れているものを阻害するのがいかに大変で、しかもバカバカしいかということを示していると思う。
 風呂は全てのエピソードで登場するのだが、四ノ宮が入院中に四の宮の彼氏がシャワーを使ってオナニーしてたせいでシャワーヘッドがぶっ壊れていたというのは、2人の関係が全然うまくいかない=シャワーの水が流れなくなる、ということだと思う。この他には瞳子が夫と性交渉した後に股を風呂で洗っていたら折り合いの悪い姑が出てくるという場面があり、風呂での洗浄が妨害されることが家族関係のぎくしゃくした感じと重ねあわされているという点では四ノ宮のシャワーのエピソードに近いかもしれない。
 ペットボトルの水は、瞳子の知人の晴美という女性が美女水というインチキ水を打っているのだが、無駄にたまっていく水がサギのネタというのは、やはり流れをせき止めることにネガティヴさを持たせているんだろうと思う。

 ちなみに私は初めて小説について書いた批評が流動性に関するものだったりするので流れの話は大好きなのだが、『恋人たち』は今年見た映画の中では『マッドマックス』と並ぶ流動系映画だったと思う。まあ、こんなとこに注目して映画見る人はあまりいないかもしれないが…