本当にグレーゲルスは意識が高いのか〜文学座アトリエ、イプセン『野鴨』(ネタバレあり)

 文学座アトリエでイプセンの『野鴨』を見てきた。演出は稲葉賀恵である。この演目を舞台で見るのは初めてだ。

 これはおそらく演劇史上でも稀代の鬱展開戯曲である。理想主義者グレーゲルスは久しぶりに山の工場から帰ってきて幸せな家庭生活を送っている親友ヤルマールに再会するが、そこで自分の父親である老ヴェルレが、かつての愛人で妊娠してしまったギーナを体よくヤルマールと結婚させていたことに気付く。ヤルマールは娘のヘドウィグが自分の子ではないことを知らず、かわいがっている。グレーゲルスは嘘に満ちた家庭生活に欺瞞を感じ、ヤルマールにすべてを暴露するが、グレーゲルスが望んだような解決は無く、紛糾の末に罪も無いヘドウィグがピストル自殺して幕が下りる。

 セットはヤルマールの住む簡素な家で、木肌が剥き出しのところにソファやテーブル、棚などが置かれており、奥にドアと階段がある、真ん中の床に小さな四角の穴があいており、ここに水が入っている。場面によってはここから水が出てきて人々の溺れるような心境を表現しており、海についてのセリフや海面のような照明ともあいまってこれはなかなか良い。

 理想主義や真実を求める気持ちがかえって不幸を招くという展開で、読んでいるかぎりではものすごく不愉快な作品なのだが、実際に上演を見るとそんなに皮肉ではなくむしろ悲劇的である。実際に上演を見て思ったのは、この芝居は圧倒的に腐敗した家父長制の物語であるということである。老ヴェルレは絶大な権力を持って息子や妻、愛人たちを不幸にする腐った家父長である一方、グレーゲルスは意識高い系…ということになるのだろうが、私が思うにグレーゲルスは実はそんなに意識高い人ではない。というのも、グレーゲルスのロマンティックな理想からは女性や子どもが一切、排除されており、彼もまた家父長制の枠にとらわれっぱなしの男だからである。グレーゲルスの頭からは、ギーナのようなそんなに身分の高くない未婚女性が妊娠してしまったときにどれほどの社会的スティグマを被るのかとか、ヘドウィグのような性格は良いが障害のある子どもにとってどんなに人生が大変かとか、そういう発想が完全に欠落している。父親が体現している家父長制に苦しんでいるわりには、自分もその思考の枠で守られている男なのである。この芝居の中では、ヤルマールやレリングも含めて男たちは皆、家父長制の枠にがんじがらめなダメ男たちだ。一方で女性たちは皆かなり現実的なキャラクターであり、この演出では女たちがとてもしっかりした奥行きある人々として描かれている。ギーナはつらい人生の中ぎりぎりの選択をし、後悔や良心の呵責を抱えつつ今の夫や子どもを愛して精一杯生きようとしている女ということで、欠点はたくさんあるがリアリティのある地に足のついた役柄として提示されている。どうしようもないクズじじいであっただろう老ヴェルレをまともな方向に導き、ギーナやヘドウィグを気遣う優しさもある寡婦セルビーはこの芝居の中でいちばん立派な大人であり、妖艶で賢い女性という性格が与えられている。ヘドウィグはまだ子どもで両親を強く愛しているだけであり、何の罪も無い(グレーゲルスはヘドウィグの野鴨への執着を嘘にまみれた家庭生活と重ね合わせているようだが、おそらくグレーゲルスはヘドウィグが感受性が強く、かつ体はそんなに丈夫ではない女の子だということを全く理解していない)。

 この上演では女性陣がとても生き生きと描かれているのだが、男性キャラクターの解釈にはちょっともう少し強さが欲しいと思うところもあった。この演出のグレーゲルスは本当にただ意識高いだけで空気の読めないダメ男なのだが、グレーゲルスは本来、ある種の不愉快な美徳がある人物なのではないかと思うのである。なんらかの情熱や説得力がないと、あんな感じでヤルマールを引きつけることはできないのではないだろうかと思う。その点ではちょっと疑問があった。