よすがになるモノ〜『沈黙−サイレンス−』(少しネタバレあり)

 マーティン・スコセッシの新作『沈黙−サイレンス−』を見た。遠藤周作の小説の映画化だが、原作は未読である。

 舞台は江戸時代はじめ、九州のキリスト教徒が多い地域である。禁教令が出た日本で、信仰の篤かったはずのフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が伝道をあきらめて棄教したという噂を聞き、宣教の使命に燃えた2人の若きイエズス会士、ロドリゴ神父(アンドルー・ガーフィールド)とガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は日本に密航する。2人は苛酷な弾圧を受け、ロドリゴ神父は信仰とは何か、神の愛とは何かという問題に直面するが…

 とりあえず、好き嫌いは別として出来が違う映画である。暗くて長くてヘヴィな作品だし、信仰が題材なので主題としてもそんなにいろいろな人におすすめできるものではないが、そういうこととは別に完成度が高い。スコセッシは80年代末から遠藤周作の原作を愛読していて、20年もかけてこれを映画化し、プレミアは教皇庁の研究所で行ってローマ教皇にも見せたらしいのだが、まあとにかく信仰について深く考えさせる力作で、どんな神学者や宣教師にも自信を持って見せられるであろう出来である。演出、撮影、編集に込められた丁寧さと情熱が段違いだ。全体として映像が綺麗で、貧乏くさい場面や汚い場面、残虐な場面などであっても計算された構図とリアルな美術でなんとなはなしに画面にゴージャスさが漂っている。大部分は日本を舞台にしていて台湾で撮影したらしいのだが、日本の描写についても日本で育った人間が見ておかしいと思えるようなところはほとんどない。日本における宗教弾圧の苛酷さを描く一方で、日本の当局を過度に悪魔化することもなく、ヨーロッパの宣教師のひとりよがりな要素などもさりげなく描いていて、帝国主義に対しても大変バランスのとれたアプローチをとっていると思った。役者陣の演技も申し分ないし、ところどころにユーモアがあって笑えるのも良い(審問官がどんどん体を小さくする場面では声をあげて笑ってしまった)。ポルトガル人設定の神父たちが英語をしゃべっていて、日本人からは「パドレ」と呼ばれているのに「ファーザー」と自称しているとかいう細かいところはちょっと違和感あるが、まあ英語の映画だからしょうがないだろう(なお、ベクデル・テストはパスしない)。

 テーマは信仰の理論と実践の齟齬に関するものである。キリスト教は神への愛と慈悲を重視しており、日本での宣教においてロドリゴ神父は形の上では信仰を捨てることになっても愛と慈悲という信仰の原則を守って生きるべきなのか、それとも信徒としてのアイデンティティを守るべきなのか、という極めて難しい問題にさらされる。カトリックの信仰という特定のことがらをテーマにしているが、原則を守るかアイデンティティを守るかということは宗教以外のことがらに通じるものでもあり、ある意味では普遍的な倫理的選択を主題としていると言ってもいいかもしれない。ロドリゴ神父の選択に関してはいろいろな解釈があると思うが、信仰についてモノをよすがにすることを批判していたロドリゴ神父が結局、最後に日本の信徒から記念としてもらった小さな十字架を持って火葬にされるという最後の場面は、極端な苦難にさらされるとどんな小さなモノであっても心のよすがとして助けになるのだということを描いていると思った。これによりロドリゴ神父は、ロザリオの玉などの小さなモノをよすがにするしかなかった五島のカクレキリシタンと同じ存在になったのかもしれない。モノにすがるのは人間の弱い心のあらわれかもしれないが、他人だけではなく自らにあるそうした弱さをも神の愛が受け入れてくれると信じることも信仰なんじゃないだろうか?