言葉と物を奪われること〜『黄金のアデーレ 名画の帰還』

 サイモン・カーティス監督、ヘレン・ミレン主演『黄金のアデーレ 名画の帰還』を見てきた。

 ホロコーストを逃れ、オーストリアからアメリカにやってきた女性マリア(ヘレン・ミレン)が、駆け出しの弁護士ランディ(ライアン・レイノルズ)の助けを受け、おばがモデルをつとめたクリムトの傑作で、かつて一家の所有物だったがナチスに略奪されたままうやむやになっていた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」をウィーン政府の手から取り戻すまでを描いた法廷ものである。史実にある程度基づいているそうだ。全体としては、オーストリアアメリカのいろいろな場所で展開される法廷モノに、ウィーンの名門の令嬢であったマリアがすんでのところでホロコーストを逃れてアメリカに亡命するまでの過去を織り込んで描くという形式になっている。

 法廷場面がこれだけ続くのにそんなにダレないというのはいいと思うし、ヘレン・ミレンライアン・レイノルズ、またウィーンでの協力者であるジャーナリストのフベルトゥスを演じるダニエル・ブリュールなどの演技が良いこともあり、最後まで飽きずに見られるようになっている。しかしながら、ウィーンでオーストリアユダヤ人としての自分のルーツを認識したランディが突如もの凄い使命感を抱いてマリアの同意をもらわず勝手に裁判手続きを進めたり、妻のパム(ケイティ・ホームズ)に言わずに法律事務所を辞めたりするあたりはちょっと展開が強引だし、さらに妊娠中のパムが結局ランディの暴走を認めてしまうあたりもどうしてそうなったのかきちんと描かれていないのでかなり不消化である。

 マリアの性格の描き方はかなり丁寧だ。マリアの子ども時代のフラッシュバック場面では、アデーレが幼い姪マリアを非常に可愛がり、マリアもおばを強く敬愛していたということがよくわかる(ただし、マリアがあまり話さないのでこの2人の会話ではベクデル・テストをパスしない。マリアがクララとかルイーゼと話す場面でパスする)。年老いてからのマリアを演じるヘレン・ミレンの演技はとにかく素晴らしい。

 ただ、いくつかコンセプト重視すぎてちょっとリアリティが無いように思えるところがあった。この映画では、所有している物と用いている言語を奪われることがホロコーストの残虐性に重ねられている。言ってみれば言葉や持ち物が単なる使い捨てのツールではなく、それに対する愛着によって人のアイデンティティが規定されるような魔術的な存在として提示されている。例えばマリアはずっと英語で話し、ウィーンに言っても「英語で話します」とドイツ語での会話を断る。ところが最後、マリアが絵を勝ち取った後にかつてウィーンで住んでいた家を訪問するところでポロっと自然にドイツ語が出る。これはマリアの心が絵を取り戻し、以前住んでいた家に戻ったことで過去との結びつきを取り戻し、さらにはホロコーストによってウィーンとアメリカに引き裂かれたアイデンティティを統合し直せたということを示している。これ自体は一貫性のある表現なのだが、このマリアが英語に固執するというモチーフを引っ張りすぎたせいで、ウィーンでの審問会でもマリアが通訳無しで英語でしゃべっているというちょっと不思議な場面があったり、またそれにあわせてランディも通訳なしでウィーンの法廷に出ていたり、言語のモチーフに注意しているわりにはそれにリアリティを与えることにはあまり関心が無いみたいな感じでちょっと気になった。

 物については、マリアがアデーレの絵にものすごい愛着を抱いているというのが全体のテーマなのに、史実では手に入った絵を売却してしまっているというところがちょっと筋が通らないと思った。マリアの動機について、記憶を背負った家族の物への愛よりはナチスの蛮行を正すというほうにもっと重点を置けばこの最後に絵を売ってしまうオチももっと綺麗にまとまったと思うのだが。