まったく原作を知らずに見たが、大変面白かった〜『ポーの一族』

 東京宝塚劇場で『ポーの一族』を見てきた。原作はまったく読んだことがなかったので(漫画とか絵巻物とか、絵で話が展開するものが全体的に苦手で…)、吸血鬼の話だということ以外全然知らなかったのだが、大変面白かった。

 18世紀から20世紀まで、非常に長いスパンで繰り広げられる壮大なスケールの話だ。枠に入っているので直線的に全ての話が進むわけではないのだが、一番古い話は18世紀のイギリスの田舎、スコッティ村で始まる。主人公のエドガー(明日海りお)は妹のメリーベル(華優希)とともに孤児としてポーツネル家に引き取られるが、ポーツネル家はバンパネラと呼ばれる不老不死の吸血鬼の一族だった。一族の若旦那様であるフランク・ポーツネル男爵がシーラ(仙名彩世)と結婚するに際してポーの一族の会合が開かれ、眠っていた大老ポーも目覚めて、シーラをバンパネラに加えることが決まる。エドガーはメリーベルに普通の人生を送らせたいと思い、自分は大人になったらバンパネラになるからメリーベルだけは助けてほしいと頼み、メリーベルはロンドンに養子に出される。しかしながらバンパネラに反感を持った村人が屋敷を襲撃してきたため、一族を守るため、エドガーは十代半ばの若さでバンパネラにさせられることになる。結局、ロンドンで出生の秘密を知って恋に破れたメリーベルバンパネラとなり、エドガーとメリーベルはフランクとシーラの夫妻の子どもとして暮らすことになるが、年をとらない一族の暮らしぶりが怪しまれないよう、各地を転々とする。
 19世紀になって、ブラックプールのホテルに滞在したポーツネル一家はさまざまな人々と知り合い、エドガーとメリーベルは同年代のアラン(柚香光)と親しくなる。シーラとフランクは知り合った医師夫妻を一族に加えようとするが、反対に自分たちがバンパネラであることを見破られ、襲撃されてエドガー以外全員が消滅してしまう(バンパネラは病気で死んだりすることはないが、胸を貫かれると消滅する)。エドガーは家族を消したクリフォード医師を殺害し、天涯孤独になってしまう。一方、アランは家族とうまくいっておらず、寡婦となった母が伯父と親しくしているのを見て、口論の末、伯父ともみ合いになってうっかり階段から相手を突き落としてしまう。伯父を殺してしまったと思ったアランは(実際は一命をとりとめていた)、もう家にはいられないと思い、エドガーとともにバンパネラとして生きる決意を固める。

 セットから衣装まで作り込みがすごくて、とくにブラックプールのホテルのセットなどはたいへん綺麗に作られている。出てくる役者たちもとにかくみんな美しく華やかで、いかにも不死者らしく浮き世離れしている。これは原作がそうだからなのだろうが、19世紀のところでは心霊主義が流行ってブラヴァツキー夫人も登場するなど、時代ごとの流行にあわせて吸血鬼への偏見を描いているあたり、時代考証もとてもしっかりしている。

 お話もいろいろ考えさせられるところがあるもので、主人公であるエドガーが妹と自分の身を守るため、十代で運命を受け入れざるを得なくなるところは大変悲劇的だ。まだ子どもなのに、養親の都合で人間ではないものに変えられてしまうというのは一種の虐待なのだが、一方でまだ若々しいが一応大人で、自分からバンパネラになる気が満々だったシーラにはそれが全く理解されてないらしいところがつらい。シーラは野心と才能のある若い女性だが、これまでつらい人生を生きてきたので、むしろバンパネラとなってこれまでの女性抑圧から逃れたいと思っているらしいフシがあり、だからエドガーがバンパネラにされたことを恨んでいるのがよく理解できていないようなのだ(シーラにとってはたぶんバンパネラになることが抑圧からの解放だから)。このあたりの感情の齟齬などがけっこう細やかに描かれており、これまで見た宝塚の舞台の中でもとくに演出などが繊細だったと思う。

 しかし、あまり他の作品をけなしたりはしたくないのだが、このクオリティとスケールの吸血鬼ものが流通してるんなら、『トワイライト』みたいな英語圏の吸血鬼コンテンツが日本の市場に食い込めないのは当たり前だと思ってしまった。実は今年、英文学の吸血鬼ものについて学会発表をする予定でいろいろ調べていて(『ポーの一族』を見てみたいと思ったのも、壮大な吸血鬼の大河ロマンらしいという話を聞いたからで、生協の共同購入の抽選に申し込んだら運良くあたった)、『トワイライト』も映画を見始めたところなのだが、少なくともスケールの大きさではたぶん『ポーの一族』に太刀打ちできないと思う。