ナショナルシアター、オリヴァー・ゴールドスミス作『負けるが勝ち』(She Stoops to Conquer)〜『ハングオーヴァー』なんかまだまだ甘い!18世紀の諷刺喜劇のこのメチャクチャぶりを見よ!

 ナショナルシアターでアイルランドの劇作家オリヴァー・ゴールドスミス作の18世紀の有名戯曲『負けるが勝ち』(She Stoops to Conquer)を見てきた。演出はジェイミー・ロイドで、この間のシェリダンの『悪口学校』(同じく18世紀、アイルランドの劇作家の作品)みたいにモダナイズはなく時代ものらしいセットや衣装をつかっているが、場面転換の際に歌や踊りが入るなどちょっと新しい工夫もある。

 これはイギリスでは大変有名な喜劇で現在でもよく上演される数少ない18世紀の喜劇(同時代のもので今でも上演されるのは同じくアイリッシュの劇作家シェリダンのものくらい)なのだが、日本ではあまりなじみがない。舞台は18世紀のイギリスの名家ハードカッスル一族のおうち。ハードカッスル氏が娘のケイトを自宅に訪ねてくる婚約者候補チャールズ・マーロウに引き合わせようと計画するところから始まる。ところがケイトの父違いの兄(ハードカッスル夫人と前夫との間の息子)で、母の被後見人であるコンスタンスと無理矢理結婚させられそうになってクサっている遊び人のトニー・ランプキンが、外のパブで道を尋ねてきたチャールズとその友人でコンスタンスの隠れ恋人であるヘイスティングズに「ハードカッスル家はここから遠いので、近くにある豪華な宿屋(実はハードカッスル家の屋敷のこと)に泊まれ」と教える。ハードカッスル邸を宿屋だと思いこんだチャールズとヘイスティングズは異常にくつろいだ振る舞いで家の人たちにめちゃくちゃ失礼な態度をとり、ハードカッスル氏(2人は宿の主人だと思いこんでいる)を憤慨させる。コンスタンスが帰ってきたのでヘイスティングズはここがハードカッスル邸であることを知ってびっくりする。しかしながらふたりはしばらくチャールズをかつごうということでこれをひみつにしておく。コンスタンスはケイトをチャールズに引き合わせるが、実はチャールズは下層階級の女性が好みである一方上流階級のレディが超苦手でケイトと目も合わせられない。一計を案じたケイトはメイドのふりをしてチャールズに近づき、チャールズを夢中にさせてしまう。チャールズがメイドのふりをしているケイトに本気で惚れて駆け落ちとかを考え始めた頃にチャールズの父であるマーロウ氏が到着し、チャールズはことの真相に気付いてびっくりする。一方、ヘイスティングズとコンスタンスは駆け落ちを計画していたが、トニーのヘボでハードカッスル夫人に気付かれ大失敗。チャールズになじられたトニーは一念発起し、コンスタンスを遠くにやってヘイスティングズから遠ざけようとするハードカッスル夫人をひっかけて阻止。コンスタンスとヘイスティングズはハードカッスル氏とマーロウ氏の前で嘆願し、そこでトニーが実は成年に達しているのを母が隠していたことがバレる。成年に達していることがわかったトニーは晴れて成人男性としてコンスタンスを拒絶。喜んだコンスタンスがヘイスティングズと結婚し、ケイトがハードカッスル家令嬢であることを知ったチャールズもくやしいながらケイトへの恋情に負けて結婚を決めておしまい。

 こんなわけで、あらすじだけだと単なるドタバタの連続でえらくリアリティに乏しく、またまた階級差別丸出しで鼻持ちならない話のように見える…のだが、舞台にかけてみるとこれがまったく逆の印象で、面白おかしい恋愛喜劇で辛辣な諷刺を包みこんだエスプレッソボンボンみたいに一口めは甘くてやがて苦い話である。階級差別、見た目で人を判断すること、相手によって扱う態度を変えること、上流階級の気取り、拝金主義、老人の若者に対する抑圧などありとあらゆる社会の慣習を手厳しく諷刺しているのに、とにかくセリフも人物造形もよくできていて嫌らしいところがない。

 とくにヒロインのケイトがシェイクスピアヴァイオラやロザリンド顔負けの魅力的な恋愛喜劇の推進力であるところがポイントで、上流階級の女性は気取っていて皆一様にくだらないと考えているチャールズをワーキングクラスの女性のふりで出し抜くところは、階級とかジェンダーというのは単なる習得した身のこなしの差異であり、判別しようとする側の人のいろいろな思い込みに基づいて作られるまぼろしであることを訴えているようでまあ見ている時はすごく笑えるんだけどよく考えると結構過激だと思う。このプロダクションでケイト役のキャサリン・ケリーは18世紀のお嬢様というよりは現代のロマコメ映画に出て来そうな生き生きした女の子としてヒロインを演じていて、とても親しみやすい。

 対するチャールズ(ハリー・ハッデン=パットン)は自信ゼロで洗練された女性は怖いという思い込みに怯えるボンクラ男子で、金とか身分とかはどうでもいいから自分の好きなメイド(実はケイト)と本気で駆け落ちしたいと考えるというあたり、ワーキングクラスの女性を食い物にする階級差別的な嫌らしい旦那様ではなく、多少ロマンチックすぎるところはあるが優しいし勇気もある若者として観客に好かれるように描かれていると思う。今でも洗練された女性が怖くてロクに話もできないという男性はいると思うのだが、こういう芝居を見たらどう思うんだろう?

 しかしこの芝居で一番面白いのはトニー・ランプキンである。あらすじだけだとタダのアホみたいだが、実はこのめちゃくちゃな芝居を初めてかつオチをつける「無礼講の王」キャラということで大変重要だと思う。このプロダクションではデイヴィッド・フィンという俳優が演じているのだが、感じとしては『ハングオーバー』でザック・ガリフィアナキスが演じたアランにすごく近い。悪ふざけでトラブルばかり起こしていて「いやこいつおかしいだろ」と言いたくなるところばかりのどうしようもない遊び人なのだが、すごく笑えるし独特の愛嬌があって憎めないという儲け役で、なんか見ていて「いやこの芝居のしっちゃかめっちゃかぶりに比べれば『ハングオーバー』なんか全然甘いよな!」と思ってしまった。なんというか上品ぶってる人たちの家庭に旋風を巻き起こしまくるところがとにかくパワフルで可笑しい。


 まあそんな感じで18世紀アイルランド演劇のパワーを確認したプロダクションだった。しかし、アイルランドの劇作家の風習喜劇というとオスカー・ワイルドが格段に有名で世界的にファンが多い一方、他の作家は英語圏以外ではあまり人気がないと思うのだが、イギリスに来てシェリダンやゴールドスミスを実際に舞台で見ると、ワイルドのあの「一見とても洗練されていて面白おかしいだけだけどよく考えるとやたら過激だとわかる」ギャグというのはシェリダンやゴールドスミスにもあるんだなと思ってアイルランド風習喜劇のヤバさに刮目してしまう。