その権力は肉か、服か~彩の国さいたま芸術劇場『ヘンリー八世』(ネタバレあり)

 彩の国さいたま芸術劇場で『ヘンリー八世』を見てきた。これはあまり上演されない演目で、私も舞台では2回くらいしか見たことがない。

 全体的に現代風なセットで、聖職者や王であるヘンリー八世(阿部寛)以外はかなり近代的なスーツを着ている。両側に階段がある王宮風なセットなのだが、アーチ型になっている柱のてっぺんに十字架がついているなど、ヘンリー八世の信仰をめぐるトラブルを示唆するようなデザインになっている。後ろにいわゆる「金襴の陣」(フランソワ1世とヘンリー8世の会見で、ウルジー枢機卿が大活躍した)を描いた絵画が飾ってあるのだが、これは芝居の途中で下に落ちてきて、ウルジー失脚を象徴する

 『ヘンリー八世』は、最初はいささか政治家として未熟で、ウルジー枢機卿(吉田鋼太郎)に手玉にとられていたヘンリー王がだんだん王らしくなっていく一方、その過程で最初の王妃だったキャサリン(宮本裕子)を犠牲にするという物語である。このへんの政治劇らしい物語に忠実な演出で、笑いのツボもおさえている。とくに男優陣の肉体的存在感と衣類を使って権力を見せようとする試みがなかなか面白い。

 まず、阿部寛のヘンリー王がデカいという肉体性が大事である。いくら経験不足気味な王だとは言え、とにかく周りの人間よりもデカく、大変にハンサムで、悪態をついたり怒ったりしてもどことなく品があり、ふつうの人間では勝てない雰囲気がある。ヘンリー王が舞台を歩いているとまるで受肉した権力がいるみたいだ。しょっぱなから半裸で女たちと一緒にベッドに入っているヘンリー八世が出てくるのだが、就寝中に悪夢を見ていようが、女たちとふざけていようが、半裸だろうが、ヘンリーは王らしい。このヘンリー八世の半裸は単に阿部寛のきれいな体を見せるサービスカットだというわけではなく、彼がどんなに無防備な状態であっても王であるということを示唆する演出だ。

 一方、貧しい生まれから才覚だけで成り上がったウルジー枢機卿の権力は、ヘンリーに比べると明らかに肉体に染みついていないものであり、彼が来ている赤っぽい法衣が後で手に入れた権力、常に手入れして身につけておかねばならない借り物としての権力を象徴する。ウルジーが派手なパーティを催し、そこに変装したヘンリー八世がやってくる場面があるのだが、ウルジーはそういうパーティで気を遣って権力を誇示しないといけないのである。ウルジーは失脚の場面で法衣どころかその下に着ていた服まではぎとられてステテコ一丁みたいなみじめな姿になるのだが、これはウルジーの権力というのが外から着せられたものにすぎず、簡単に奪えるということを象徴している。裸でも王様であるヘンリーと、法衣という武装がなければただの庶民のおじちゃまであるウルジーの間には決定的な違いがある。私は『ヘンリー八世』はチューダー朝の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』だと思っている。低い身分から成り上がり、実体がない権力をもてあそぶウルジーのキャラクターの面白さはすごく現代的だ。

 

 一方、初日で、かつ『ヘンリー八世』はシェイクスピアフレッチャーとの共作でちょっと台詞にくせがあることもあって、かなり台詞回しをとちっている役者がいたのは残念だ。阿部ヘンリーやノーフォーク(河内大和)などは長台詞でも立派だったのだが、脇役陣はかなり台詞にぎごちないところもあった。あと、全体的に女性陣の役は小さくなっているように思ったし、またキャサリン(宮本裕子)の台詞がかなり聞こえにくかった(これは私が座っていた位置の問題かと思ったのだが、休み時間に別の人たちも言っていたのでたぶん全体的に聞こえにくかったのだろうと思う)。