この構成でいいのか?~『最後の決闘裁判』(ネタバレあり)

 リドリー・スコット最後の決闘裁判』を見た。

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 中世フランスで実際に起こった決闘裁判を主題に、3章構成でそれぞれの当事者の視点から事の次第を描いた作品である。第1章がジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)、第2章がジャック・ル・グリ(アダム・ドライヴァー)、第3章がマルグリット・ド・カルージュ(ジョディ・カマー)の視点で描かれている。マルグリットが夫ジャンの元親友であるジャックに強姦されたとして訴えを起こし、それをジャンとジャックの決闘で決する、という物語である。史実に基づいているとは言え、かなり脚色はされているらしい。

 明らかに#MeTooを意識した作りで、性暴力にあった女性の主体性が置き去りにされ、結局男性同士の見栄の張り合いに回収されてしまう様子を皮肉をこめて描いている。とくに最後の決闘が意図的にかなり見苦しく、ロマンティックな騎士道的雰囲気を完全に剥奪されたものとして提示されている。非常にちゃんと戦っているところを撮ってはいるのだが、女性の権利が尊重され、法が公正であればやらなくていいことをわざわざ男同士で面子のためにやっている…みたいなばかばかしさがいろいろなところからにじみ出る演出で、一応きちんと終わるのだがあんまりすっきりしない。このあたりはいかにもリドリー・スコット(しかも明るい気分でない時のリドリー・スコット)という感じで、大変よく描かれている。

 ただ、構成についてはちょっと疑問がある。第2章は正直、これ要るのかな…と思った。第2章で出てくる情報はほとんど第1章か第3章に出てきているか、ちょっと脚本をいじれば第1章か第3章に入れられるものではないかと思う。いろいろなところにル・グリの思い込みが出てきて、それが実際はこうでした…ということが第3章で語られるのだが、そのわりにはちょっと控えめすぎるというか、ル・グリの妄想とか思い込みをもっといろいろなところでイヤな形で見せるならともかく、こんな押さえた描き方でわざわざこれだけの尺を使って強姦犯に主体性を持った語りを付与する必要があるのかな…と思った。結果的に第2章はけっこうアダム・ドライヴァーの演技とベン・アフレック演じるアランソン伯のオモシロキャラぶりを見せるのが主眼の章になってしまっている気がする。性暴力の告発を描いた作品で、強姦犯とそれを庇護している主君の演技を楽しむのが全体の三分の一の主眼…というのはなんだかバランスとしておかしい気がする。

 こういう映画でしかも #MeTooがテーマということであればマルグリットの主体性ある語りが最も重要で、さらにマルグリットを演じるジョディ・カマーは素晴らしい演技をしていると思う。しかしながらそもそも「人によって真実が違う」みたいな羅生門スタイルの描き方を用いると、必然的にそれぞれの語りが平等化・相対化されてしまい、「ひとりひとりにとって真実は違いますね」ということになって、告発者の語りが占める位置が小さくなってしまう。この作品に影響を与えている『羅生門』はかなりミソジニー的な作品で、同じスタイルで違うことを…という意欲に基づく構成なのはわかるのだが、この作品は「ひとりひとりにとって真実は違いますね」というところ以上にあまり突っ込んでおらず、最後はマルグリットの主体性よりも男性が見栄のために行う決闘の愚かさみたいなところに焦点が移ってしまっていると思う。この主題でこれ以上の出来のものを作るのは難しいとは思うのだが、先日『プロミシング・ヤング・ウーマン』を見た時と同じように、被害を受けて告発する女性の主体性を中心に構成する作品をもっと作れないのかな…とは思ってしまう。