途中まではわりと良かったのだが、オチが…『恋人はアンバー』

 『恋人はアンバー』を見てきた。

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 舞台は1995年のアイルランド、キルデアのカラッハである。主人公エディ(フィン・オシェイ)は父に倣って軍人を目指しているが、周りに馴染めず、自分のセクシュアリティについて迷いを抱えている。同じ学校に通っているレズビアンのアンバー(ローラ・ペティクルー)は、外れ者同士付き合っているフリをすることでいじめや同調圧力から逃れようとエディに持ちかけ、なんだかんだで2人はカップルのふりをすることになる。

 アイルランドでは1993年にやっと同性間性交が違法でなくなり、映画の中にも出てきていたように1995年の国民投票まで離婚すらできなかった。そうした社会的に保守的な環境でサバイバルし、学校で日常的に受ける異性愛規範的な同調圧力(とにかく異性の相手と付き合えという友人間のプレッシャーがすごい)をやり過ごすためにエディとアンバーが恋人同士のフリをするのだが、その過程で自分がゲイだということを認められずにいたエディは、既にレズビアンとしてのアイデンティティに自覚があるアンバーからいろいろなことを学ぶ。カップルのふりをするうちに友情が芽生えていくわけだが、いろいろあるつらいこともあまり湿っぽくならないように書いていて、気の利いたところがたくさんあるロマンティックコメディではある。

 しかしながら、個人的に最後が全然、良いと思えなかった。わりと全体的にエディがアンバーからいろいろ学ぶほうが多く、ちょっとエディがアンバーに提供するものが少ないのではと思って見ていたのだが、ラストでそのへんのバランスの悪さが爆発する。アンバーは学校を卒業したらロンドンに出てパンク系のジン作りなどをして暮らそうと考え、ずっとこつこつお金をためているのだが、恋人も母親も地元にいるアンバーは結局、町に出るのをやめ、軍隊に入ろうとしているエディに自分がためたお金をあげて、エディを1人で旅立たせるのである。正直なところ、小さい田舎町で育った女性として、この展開には一切、リアリティを感じなかった。たしかにすぐに都会に出られないとかいうような事情が発生する場合はあるかもしれないが、それでためていたお金を全部友達にあげてしまうというのはちょっとあり得ないと思う。さらにこの作品は、なりたい自分と本当の自分の齟齬みたいなものがテーマなのだが、アンバーはずっとロンドンでパンクな生き方をしたいと言っていたのに、結局は田舎で家族と暮らすのが本当の自分です…みたいなオチになっていて、男性は旅立ち、女性は地元を守るのが本当の自分…という、なんだかえらく古風なところに着地してしまう。レズビアンの女性が夢を犠牲にしてゲイの男性を旅立たせてあげるという、ずいぶん女性の自己犠牲を理想化した作品だと思った。

 なお、エディが冒頭でヘッドホンで聞いているのはパルプの「マイル・エンド」である(1996年の『トレインスポッティング』でも使われていた)。これはロンドンのとんでもないボロ家の部屋を借りて住む様子を歌った作品である。アイルランドの田舎でこの歌を聴いているというのはなんとなくちょっとおかしい…というか、このボロ家の歌でもカラッハで聴いていればオシャレソングなんだろうというのはなんとなく味わいがある。