この「芝居」の枠、意味ある?~『アステロイド・シティ』(試写、ネタバレあり)

 ウェス・アンダーソンの『アステロイド・シティ』を試写で見てきた。

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 全体が1950年代のアメリカの劇作家コンラッド・アープ(エドワード・ノートン)が書いた架空のそれっぽいお芝居『アステロイド・シティ』の創作過程についてのテレビ番組という枠に入っている。『アステロイド・シティ』という戯曲の物語が展開される一方、舞台裏で起こっていることも映される。『アステロイド・シティ』のお話じたいは、砂漠のど真ん中にある隕石の落下跡が名物のアステロイド・シティで行われる子ども科学コンテストと、そこで起こるさまざまなトラブル…というか第三種接近遭遇の話である。

 別につまらない話ではなく、いつものアンダーソンっぽい面白いところもたくさんあるのだが、私が最初から最後まで大変気になったのは、この『アステロイド・シティ』という芝居の物語が、少なくとも私の個人的感覚ではてんで1950年代のアメリカの芝居らしくないことである。この時代にこんなSFっぽい戯曲を、ユーモアもまじえて乾いた空気感で書くアメリカの劇作家なんていたかな…と思いながら見ていた。まあ、私はアメリカ演劇が専門ではなく、50年代のアメリカの劇作家というとアーサー・ミラーテネシー・ウィリアムズ程度しかちゃんと見ていないので、別にこういう作風の劇作家もいたのかもしれないが、どっちかというと『アステロイド・シティ』が連想させる内容は1950年代の芝居というよりは映画のほうである。

 正直なところ、この「芝居」の枠はあんまり機能していないのではないかという気がする。何しろ『アステロイド・シティ』の物語じたいはカラーでまるっきり映画らしく撮られていて、芝居として提示する必然性があまり感じられない。そのせいで核爆弾の表現には悪影響が及んでおり、たぶん芝居ならああいう感じで撮っても「まあ芝居だから誇張してるんでしょ」で良くなりそうなところ、映画らしく撮っているのでけっこう核爆発を軽く見ているような感じに見える。ここを除くと、正直『アステロイド・シティ』のお話じたいは映画という広い場所の空気感を出せるメディアでやるからこそ面白い話であって、芝居でやったら全然面白い内容にはならないのでは…という気がする。私はウェス・アンダーソンの映画に演劇性を感じたことがほぼ無いのだが、アンダーソンの映画というのは様式美はあるが全然、演劇的ではないと思うし、『アステロイド・シティ』も演劇性は全然ないのに芝居の枠がある不思議な作品だと思った。