キャラが立った楽しい上演~ウィーン国立歌劇場『フィガロの結婚』(配信)

 ウィーン国立歌劇場による『フィガロの結婚』の配信を見た。2021年2月4日に無観客で上演されたばかりの公演の録画らしい。指揮者はフィリップ・ジョルダンで、演出はジャン=ピエール・ポネルによるものである。

 以前に配信でポネルの『チェネレントラ』を見た時、セットも演出もしっかりしているわりにいまいちドレスのチョイスが納得いかなかったのだが、これは衣装、セット、歌手がしっかりあっており、見やすかった。とくにロジーナ(フェデリカ・ロンバルディ)の白いレースのドレスは大変よく似合っているし、健気だが悩みがちなキャラにもあっている。わりとキャラがはっきり立っているプロダクションで、悩めるロジーナをしっかり支えるスザンナ(ルイーズ・オルダー)、一見優男風だがたまにデッドパンみたいな皮肉をかまし、怒ったり悲しんだりするとわりと激しい感情表現もするフィガロ(フィリップ・スライ)、可愛くてフラフラしたケルビーノ(ヴィルジニー・ヴェレーズ)、けっこう気分屋で付き合いづらそうな感じのアルマヴィーヴァ伯爵(アンドレ・シュエン)がそれぞれ生き生きしている。歌もいいし、楽しいプロダクションだった。

やや演出に疑問~ウィーン国立歌劇場『皇帝ティートの慈悲』(配信)

 ウィーン国立歌劇場の配信でモーツァルトのオペラ『皇帝ティートの慈悲』を見た。2016年4月4日の上演を録画したものである。演出家はユルゲン・フリム、指揮者はアダム・フィッシャーである。

 ローマの皇帝ティートをめぐるいざこざを描いた作品である。ティート(ベンヤミン・ブルンス)に嫉妬するヴィッテリア(カロリーネ・ウェンボーン)がティートの親友で恋人であるセスト(マルガリータ・グリツコヴァ)を使ってティートを暗殺しようとするが、結局ティートは慈悲を発揮して全員を許してやるという物語である。演出は現代の美術や衣装を用いている。

 全体的にちょっと演出に一貫しないものを感じた。けっこうえらいこと(クーデター未遂では?)が起こっているのに最後に全部慈悲でなあなあにされてしまうという台本がちょっと弱いので、いろいろ筋道をつけるために工夫が必要なのかもしれないが、たいへん精神不安定な人たちが右往左往している作品だという印象を受ける。ティートはとても慈悲深くてできるだけ正しいことをしようとしているという設定なのに、以前からの恋人であるユダヤの王女ベレニスと別れられておらず、一言も話さないし歌わないベレニスがずっとティートと一緒にいる(これはふつうの演出ではやってないらしい)。ベレニスときっぱり別れてローマ人の正妻を選ぼうとしているという話なのに実際は未練たらたらでベレニスを従えているせいで、ティートがずいぶん弱々しく、慈悲深いのではなく政治的な決断力がない人に見える(ベレニスがローマ人に好かれていない背景には民族差別があるので、ティートがベレニスと結婚できないという事態じたいは大変問題であり、ティートは気の毒なのだが、結婚しないとは言え公の場にベレニスを連れて出ているので、政治的判断として一貫性がないように見える)。ティートは混乱して自分に銃を向けたりとか、けっこう精神的に参っているみたいだ。さらに最後はテロ行為を働いたセストが許してもらったのに自分に銃を向けるところで終わっており、美しい音楽とは裏腹のなんだかお先真っ暗な終わり方である。こういうのもありなのかもしれないが、ちょっと見ていて戸惑ってしまった。

終盤にかけて失速したような…ITA『ローマ悲劇』(配信)

 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、ITAの『ローマ悲劇』を配信で見た。新型コロナがなければ来日していたはずの演目である。2007年に作られた作品で、シェイクスピアの『コリオレイナス』、『ジュリアス・シーザー』、『アントニークレオパトラ』をまとめて6時間に編集したものである。先月のKings of Warに続いて大変な長丁場だ。

ita.nl

 家具が置いてある大きなセットが舞台で、衣装などは完全に現代である。ふだんは観客がいろんなところを動けるらしい。今回は観客が入れないので、そのかわりにカメラをいろいろ動かしており、カメラワークは舞台の撮影としてはほとんど完璧といっていいような洗練度である。休憩時間もカメラが回しっぱなしで、ナレーターというかテレビ局のブロードキャスターみたいなMC(Noraly Beyer)が休憩中に「あと何分でシーザーが死亡します」みたいなことを説明してくれる。テロップでも「シーザー死亡まで3分」などの情報が出るようになっている。死ぬ描写はほぼ血などが出ないシュールでちょっとブラックユーモア的なもので、真ん中のデッドゾーンみたいなところに運ばれると死亡宣告となる。

 序盤は大変面白く、90分でコンパクトに仕上げた『コリオレイナス』といい、驚くほどいけすかない政治家風なブルータス(Roeland Fernhout)と扇動がものすごく得意なアントニー(Hans Kesting)の対比がはっきりした『ジュリアス・シーザー』といい、非常にシャープな政治劇である。最初はコリオレイナス(Gijs Scholten van Aschat)の母という私的な立場であるにもかかわらず強い政治家として力を振るうヴォラムニア(Frieda Pittoors)が存在していて政治領域における公私がはっきりしていなかったローマが、『ジュリアス・シーザー』の時代になるとシーザー(Hugo Koolschijn)の妻キャルパーニア(Janni Goslinga)やブルータスの妻ポーシャ(Ilke Paddenburg)がほぼ力を持たなくなって公私の別がはっきりするようになり、一方で公的な女性政治家としてキャシアス(Marieke Heebink)やオクテーヴィアス(Maria Kraakman)が登場するようになる(このふたりは男性から女性に変更されている)。『アントニークレオパトラ』では、アントニークレオパトラ(Chris Nietvelt)の関係はもちろん、オクテーヴィアスがオクテーヴィア(Ilke Paddenburg)をアントニーと結婚させるなど、再び政治領域における公私の別が曖昧になる。

 『ジュリアス・シーザー』あたりまでは、けっこうひとりひとりのキャラが不愉快な人にせよ面白い人にせよけっこうはっきりしていてメリハリがある。とくに『ジュリアス・シーザー』では、通常のプロダクションでは、全く融通のきかない真面目ちゃんかもしれないがとにかく善良で誠実であることにかけては折り紙付きの人物として演じられることの多いブルータスが、わりと既得権益を生かして活動していそうな政治家になっており、かなり斬新だ。シーザー暗殺後にブルータスがあらかじめ用意していた紙を見ながら演説をするあたり、どう見ても政治パフォーマンスとしてはイメージが悪い。一方でアントニーはブルータスのあまりにもそつが無くてむしろ人間味のないスピーチを見て、用意してきた原稿を捨てて涙ながらにマイクとカメラに向かって訴える感情の政治を行う。このあたりの描き分けは実に見事だ。衣装を使った表現もしっかりしていて、ブルータスはかなり隙の無い格好をしているのだが、アントニーは演説の前にわざとネクタイを緩めるなど、人から親近感を持ってもらえそうな着崩しを行う。またキャシアスは高いヒールの靴に胸の谷間が見えるタンクトップをビジネススーツにあわせたけっこうゴージャスな中年の女性政治家である一方、オクテーヴィアスは露出度の少ないスーツで髪型や靴ももうちょっと実用的で堅い感じにそろえているなど、性格の違いが衣装からわかるようになっている。

 しかしながら、私はここまでのシャープで醒めたトーンからして『アントニークレオパトラ』は悪い予感がするな…と思っていたのだが、それは完全にあたってしまった。もともとイヴォ・ヴァン・ホーヴェはフツーに情熱的でセクシーな男女関係を描くのはけっこう苦手だと思うのだが(『ブロークバック・マウンテン』は映画ほどではないにせよわりとちゃんと恋愛ものだったので、男同士だとできるのかも)、『アントニークレオパトラ』は主役二人の間にあるセクシーなテンションが華やかに描けていないせいで、かなりダラダラしてうるさいだけになっているところがある。ここだけで150分くらいあるのだが、カットの仕方が悪いのか、アントニークレオパトラもあまり政治家らしく見えず、昔はキレがあった人たちが年とって無能になったみたいな印象を受けてしまう。いきなりアントニーがパンツ一丁で出てくるなど露出度が高い描写や性的描写はあるのだが、それが全然お色気につながっていなくて、なんとなく不穏でイヤな感じがするだけである。女性が多いエジプトのクレオパトラの宮廷は騒々しくてあまり魅力がない一方、オクテーヴィアスはオクテーヴィアをいじめる一方でキスするなど近親相姦的な関係で、全体的に女性同士のつきあい方が見ていてものすごく居心地が悪い一方、男性陣はあんまり賢く見えない。これはちょっとミソジニー的にすら見えると思った。イノバーバス(Bart Slegers)はけっこう良く、外に飛び出して暴れて死んでしまうところはものすごくエネルギッシュで面白かったのだが(全くマスクをしていない人たちの間に突っ込んでいって触ったりするので最初は録画かと思ったのだが、ライヴらしい)、他にあんまり見せ場がない。終盤はもっとキレとメリハリが要ると思う。

外国映画の日本語タイトルが変になる現象についての論文が出ました

 Critical Surveyの「シェイクスピアと日本」特集に、外国の文芸映画や女性向け映画、とくにシェイクスピア映画を日本に輸入するとタイトルがとんでもないものになる現象についての論文を寄稿しました。この問題(ずいぶんニッチな問題ですが)について英語で書かれた学術論文はおそらくこれが最初ではないかと思います。日本語でも一般雑誌はともかく、学術論文で先行研究は見つからなかったので、映画ファンの間でよく話題になるわりにはあんまりまとまった書き物がない分野なのかもしれません。他にも日本の先生がたくさん寄稿し、いろんな分野をカバーしています。

Kitamura Sae, 'A Rose by Any Other Name May Smell Different: Why Are the Japanese Titles of Shakespearean Films So Odd?', Critical Survey, 33.1 (2021): 59-71.

www.berghahnjournals.com

 

中公新書を3冊紹介する企画に寄稿しました

 中公新書を3冊紹介する企画に寄稿しました。

www.chuko.co.jp

 専門外の本をテーマにしたので、全部日本史の本です。ラインナップは以下3冊です。

 

 

 

 

 

 

ちょっとつけヒゲが…東京ノーヴイ『ワーニャ伯父さん』(配信)

 東京ノーヴのスタニスラフスキーアカデミー7期生による『ワーニャ伯父さん』を配信で見た。下北沢演劇祭の一環としてオンライン配信されたものである。

www.tokyo-novyi.com

 ものすごくゆっくりした正攻法のチェーホフなのだが、上演予定時間3時間45分ということだったのに2時間半強で終了し、さらになんか音楽が流れていたのに途中でブツっと切れて終わったのでちょっとビックリした。撮影はこの手のものにしてはかなりよいほうなのだが、全体的にむちゃくちゃ画面が暗く、ちょっと配信で見るにはキツい。いつもノーヴイがやってる小さい劇場でやるのなら、このくらい暗くても非常に親密感があって効果的なのだろうと思うのだが、モニタで見るにはわりとつらい感じだった。あと、この手のものとしては撮り方に工夫があってクロースアップをよく使っているせいで、男性陣の付けヒゲがズレたりしているのがよく見えてしまい、そのへんがあんまりよろしくない。そもそもつけヒゲはやめるべきではと思った。

語られないもの~福島三部作第三部『2011年:語られたがる言葉たち』(配信)

 福島三部作第三部『2011年:語られたがる言葉たち』を配信で見た。

www.tpam.or.jp

 2011年3月11日の大地震から始まり、震災による原発事故で避難した人たちを取材する福島のテレビ局の様子を描くことで、語るべきだが非常に語りにくい震災と原発事故の被害、そしてその後に続く福島県人に対する差別の体験を浮かび上がらせるものである。前作で双葉町長になった忠は死の床にあり、忠が幻影などを見ながら弱っていく様子は第二部の犬のモモの死の描写と呼応している。

 最初の地震の描写がかなりリアルでショッキングである(これ、撮影のカメラをわざと揺らしてる?)。その後は避難した福島県の人々が放射線について行ういろいろな思索や発言、体験をテレビ局の取材の経緯を通してさまざまな形で提示し、こういう体験が一般化してふつうの報道で伝えられるようなものではないこと、そしてつまりは一本の芝居で伝えられるようなものですらないこと、しかしながらそれでも何らかの形で少しずつ語るべきものであることを示している。

 ただ、放射線と女性の生殖をめぐる言説があんまり相対化なしに提示されていること(これは私が原発事故の後、ずっと非常に居心地が悪いと思っていたことだ)については平板さを感じた。放射線の影響について女性が自分が生む子供との関連で不安を感じるというのはまあそうなのだが、女性にそう考えることを強いている日本社会の状況については本作は掘り下げておらず、これこそ「語られないもの」になってしまっている。日本社会は女性を産む機械扱いしがちで、女は当然子供を産むものだという社会通念が存在しており、さらに健康な子供を産めという強い圧力が母親にかかっているのだが、それについてこの作品は問いかけていない。個人的には、このへんが掘り下げられていない女性陣よりも震災で妻と娘を失った双葉町出身の男性である荒島のほうがうまく描かれているのではないかと思った。

 

戯曲 福島三部作

戯曲 福島三部作

  • 作者:谷 賢一
  • 発売日: 2019/11/10
  • メディア: 単行本