もう全員海で死ねばいいよ〜ドンマーウェアハウス、ジュード・ロウ主演、ユージン・オニール作『アンナ・クリスティ』

 ドンマーウェアハウスジュード・ロウ主演の『アンナ・クリスティ』を見てきた。原作はユージン・オニール作の1921年の戯曲で、グレタ・ガルボ主演の映画で有名(未見)。


 …で、一言で言うと、役者はみんな頑張っているのだがとにかく戯曲がつまらなすぎる。演出も古いし…

 
 とりあえずこの戯曲は5歳の時に娘を捨てたニューヨークのスウェーデン系の船乗りクリスのもとにミネソタセントポールから20歳になった娘アンナ・クリスティがやってくるところから始まる。喜んだクリスはこまごまとアンナの面倒を見てやるのだが、家になかなか帰ってこない船乗りとだけは付き合うなと釘をさす。ところがアンナは救助した難破船の乗組員マット(アイルランド系)と付き合うようになってしまう。マットはアンナに求婚し、クリスは反対するが、アンナは求婚を断る。理由をしつこく尋ねるマットに対して、アンナはクリスに預けられた親戚の農場でいとこにレイプされたこと、それをきっかけに家出してしばらく街で娼婦をしていたことを告白する。激怒したマットはアンナをslut(売女)と呼んでいなくなり、クリスもショックで飲みにいってしまう。しかしながらクリスとマットは最後に改心し、クリスはアンナと結婚することにする…が、泥酔したクリスとマットは前日にケープタウン行きの船に乗る契約をしてしまっていた。帰ってくると約束し、クリスとマットがアンナを置いて船出せんとするところで終わり。


 まあストーリーを読んでわかるように話はベタベタな古くさいメロドラマである。娼婦をしていた女とその過去を「許す」男とか今時性差別的すぎて実にくらだないし(強姦されて家出し、頼れる人もなく金に困って売春せざるを得なくなった女を「許す」とかいう考えがそもそもあまりにも男性中心的で受け入れ難い)、当然新しい演出を期待する…わけだが、演出があまりにもオーソドックスで全然よろしくない。現代人の感覚だと、アンナをslutなどと呼んでドメスティックバイオレンスまがいの暴言を吐くマットはいくら最後に改心したとはいえまともな男性とは全く思えないし、父親のクリスも自分が子供を捨てたせいでアンナが強姦されるようなひどいめにあうようになったのにあまりにも無責任である。そうなると、この芝居はとにかく男どもの無責任さをシニカルに諷刺するような演出にしないと本当にただの古風なメロドラマになってしまうだろうと思うのだが、あまりにも演出がオーソドックスで全然そのへんの皮肉が強調されてない(あるいは、皮肉に見せたかったのかもしれないがそれは全然機能していない)。一応、原作戯曲には最初にマーシーという女が出てきてアンナの過去に同情する場面があり、舞台ではここをもっと強調すれば良かったのではと思うのだが、まあこのマーシーはそもそも最初しか出てこなくて戯曲でもなんで出てきたのかよくわからない役柄なので仕方ないか…まあなんか見ていてあまりにもこの2人の男の漫然としたダメっぷりにむかつくので、もうこいつら全員ケープタウン行く途中で難破して海で死ねやとか思ってしまった(パニックホラー映画とかだといかにも死にそうなイヤなヤツに客が"Kill! Kill!"コールをとばすことがあるらしいが、そういう感じ)。


 …で、上で「現代人の感覚では」と書いたが、よく考えると17世紀にアフラ・ベーンが書いた『流れ者』第二部の最後ではカッコいい放蕩者ウィルモアが高級娼婦ラ・ヌーチェの情にほだされ、ラ・ヌーチェが足を洗ってウィルモアと一緒になることを決意して終わるし(これは当時としては非常に変わった展開だと思うが)、この芝居から20年くらい後に同じアメリカで作られた1939年のジョン・フォードの映画『駅馬車』ではまあ所謂「男の中の男」であるリンゴ(ジョン・ウェイン)は娼婦のダラスに何も聞かずに求婚するし、「真の男らしい男は(自分に自信があるので)女のかわいそうな過去など気にしないものである」というこれはこれで問題がありそうだがそれでも一応筋は通っている作品は別に『アンナ・クリスティ』の前にもすぐ後にもたくさんある。そう考えると実は『アンナ・クリスティ』は1920-40年代くらいののアメリカでしか機能しないようなベタベタの性道徳メロドラマだったんじゃないかって気がする。女が過去を隠してるという類似の筋を含む『欲望という名の電車』は1947年、映画版『哀愁』は1940年だそうだが、これはつまりジョン・フォードの『駅馬車』みたいな割合おおらかな人情表現は例外であって、この当時のアメリカ人は偏執狂的にセックスのことばっかり考えてたということなんだろうか。


 で、美術さんは船のセットとかすごくよくやってるし、海の音や嵐なんかの特殊効果も『リア王』に引き続き非常に凝っていて美しいし、役者も頑張っているのだが、この戯曲の古さ+それをアップデートしようとしないオーソドックスすぎる演出のせいで役者の持ち味が生かされてない感じが残念。アンナ役のルース・ウィルソンは、プレビューということもあるだろうがなんかちょっともたついて見えるし(たぶん本人じゃなくて演出が悪い)、マット役のジュード・ロウは筋肉つけてアクセントもきちんと習得してアイルランド系船乗りの役をやっているのだが、そもそもこういう役にあうかというと疑問である。ジュード・ロウは度はずれていい男なので、こういう「ちょっとマシなスタンリー・コワルスキ」みたいな「俗人」っぽい役よりはもっとなんかふつうの人間から一歩抜きんでたような役柄(シェイクスピアの史劇とか、あるいは風習喜劇のデフォルメされたいい男とか)のほうが映えると思うのだが…一応、この戯曲にはちょっと神秘的とも言える「海と陸」と対置があるので、ジュード・ロウを起用することでそういう神秘的というか神話的な雰囲気を強調したかったのかもしれないがあまりうまくいっているとは思えない。


 と、いうことで、ジュード・ロウはカッコよかったが全然戯曲が面白くなかった。いやしかしなんで今この戯曲をこんな演出でやろうと思ったのかね…