これはクィアな悲劇か?〜ナショナル・シアター・ライブ『二十日鼠と人間』

 ナショナル・シアター・ライブ『二十日鼠と人間』を吉祥寺オデオンで出てきた。なぜかブロードウェイで上演された作品である。主演は今をときめくクリス・オダウドとジェームズ・フランコ、演出はアンナ・D・シャピロで、スタインベックが自分の小説を戯曲化したものらしい(一応原作は小説なのだが、ほとんど戯曲みたいな小説らしい)。これはアメリカ人は皆知っている話で、ジョージとレニーはフォーク・ヒーローみたいな扱いらしいのだが、私は原作を読んだことがなくてあまり知識がなかったこともあり、新鮮な印象で見ることができた。

 主人公は恐慌中に季節労働者として働いているジョージ(フランコ)とレニー(オダウド)で、ジョージは小柄で賢い男だが、レニーは大男で怪力であるものの、おそらく何かの知的障害を持っていて行く先々でトラブルを起こしている。ジョージはそんなレニーを親友としていたわり、一緒に小さな農場を買って暮らすことを夢見て貯金をしているが、なかなかうまくいかない。レニーが前の職場でトラブルを起こしたため、2人は新しい働き口にやってくるが、そこで働いている右手のない老人キャンディが2人の夢を知り、自分が障害を負った時にもらった補償金を出すので夢の農場の仲間に入れてくれと言ってくる。ところがひょんなことからレニーは誤って農場のボスの息子カーリーの妻を殺してしまい、悲劇が…

 セットは最初と最後に出てくる川辺、農場の宿舎(ベッドがついた壁が上から降りてくるという大胆な装置転換がある)、宿舎に入れてもらえないアフリカンの労働者クルックスの部屋(読書家という設定で本がたくさんある)、納屋などで、美術はわりとオーソドックスだと思った。時代背景が重要な芝居なので、もちろんモダナイズはない…のだが、貧困に押しひしがれまともな家にも住めず、一生命令される立場であり続ける登場人物の姿はモダナイズしなくてもじゅうぶん、現代的だ。

 主演のクリス・オダウドとジェームズ・フランコの演技はとてもよかった。オダウドはもともと喜劇役者なので面白みがあるのだが、愛嬌のある演技と最後の悲劇のメリハリが非常にある。フランコは食い詰めた季節労働者にしては容姿がゴージャスすぎるかもしれないが見ているうちにそんなこともふっとんでしまい、オダウドと息もぴったりで、最後の涙を流しながら相棒を殺そうとするところは非常に心に迫るものがある。

 それで、見ていてこの作品ってかなりクィアなんじゃないかと思った。この作品における異性愛というのはとにかく絶望的なものである。男たちは金がなさすぎて女を口説く余裕すらなく、女といえば娼婦しかいない貧困生活にどっぷりとつかっているのだが、かといって女がいる男が幸福かといえば全くそういうことはなく、カーリー夫妻は極めて不仲で新婚二週間で離婚の危機である。不満をもてあましたカーリーの妻がやたらに男たちに色目を使い、その結果レニーが全くの勘違いでカーリーの妻を殺してしまうという展開はミソジニーを感じさせるところもあるが、この演出ではカーリーの妻(レイトン・ミースター)はそれなりに孤独でかわいそうな女性として描かれているところもあり、そこまで激しいミソジニーは感じなかった。またまた、ものすごい美人なのに小悪魔っぽくてトラブルを起こしそうだということで宿舎の男たちみんなから避けられているというあたり、この作品では異性愛が可能性として提示されてもことごとく拒否されるという展開になっていると思う。一方、ジョージとレニーは男性同士で、性愛でも血縁の情でもない友愛の絆によって結ばれており、これが孤独な労働者たちの中にあって2人を特別な存在とするものとして描かれている。この恋人でもなければ血縁でもなく、利益があるわけでもないのに家族を作ろうとする男たち2人の関係がある種の聖性すら有する純粋な愛として描かれているというところは非常にクィアな作品だと思ったのだが、このクィアな関係が幸福な結末を迎えることはなく、レニーが障害ゆえに犯罪を犯したことでジョージはレニーを殺す羽目に陥る。2人の友愛が成就しなかったのは、こうした型にはまらない人間関係、障害、貧困などを迫害する社会制度のせいであり、レニーが社会に押しひしがれトラブルに巻き込まれることを予想しつつレニーを守るろうとするジョージの姿は、運命が決まっていてもそれに抗おうとする古典的な悲劇のヒーローだ。男性中心主義的、異性愛中心主義的、かつ資本主義的(現代の再演なので、ネオリベラリズム的といっていいと思う)な社会の中でヒエラルキーの下層に追いやられている男たちの運命が非常に丁寧に描かれていると思う。