アリエル・レヴィ『男性優越主義のメスブタ――女とオゲレツ文化の興隆』(Female Chauvinist Pigs: Women and the Rise of Raunch Culture)

 アリエル・レヴィ(Ariel Levy)のFemale Chauvinist Pigs: Woman and the Rise of Raunch Culture(『男性優越主義のメスブタ――女とオゲレツ文化の興隆』)を読んだ。フリープレスから2005年に出て結構話題になった本らしい。



 ずいぶんひどいタイトルでなんか反フェミニズム本みたいな感じだが、この著者のレヴィはニューヨークのジャーナリストで筋金入りのフェミニストである。序論によるとお母さんは25年間女性の自己発見グループに出ている指圧師(化粧品持ってないらしい)、お父さんは元ウィスコンシン大学で左翼運動をやってた活動家で家族計画とか女性の権利運動を支援してたらしい。


 この本の主な主張は、ここ数年アメリカで女性がポルノに出たり性的なものを消費することで自分は自由や力を得ているのだと主張するフェミニズムの動きがあるが、そういうのは全然本当のエンパワーメントにはならない、逆に男性中心的な社会に寄り添って女性を性的な存在に押し込めるだけだ、というものである。Female Chauvinist Pigsというのは世間的に「男らしい」と見なされている価値観を内面化し、セックス=力とみなして自分や他の女性も性的なモノと考えたり、男性が行うようにセックスを消費することでパワーを感じているような女性たちのことを指している(第三章)。なお、female chauvinismはmale chauvinismと対になる言葉として使われるので本来は「女性優越主義」という意味なのだと思うが、レヴィはこの本では「男性優越主義的態度を内面化して女性に同じ基準を適用する女性」を指して使っているので、便宜的に「男性優越主義のメスブタ」としてみた。

 
 で、レヴィは学者ではなくジャーナリストなので、学者の論文とかを引くのではなくアメリカ中のいろんなところに飛んでいってガールズ・ゴーン・ワイルド(よくわからんが、そこらへんの学生とか働いてる若い女性とかをつかまえて胸とかを見せてくれたらお金を払うというポルノグラフィらしい)とかプレイボーイ社(現在の社主は女性)とかを取材したり、名のあるフェミニストから十代の少女、乱交パーティに参加する女性たち、ストリップクラブに通う女性、LGBTコミュニティの人々などにインタビューしたり、多数の映画やテレビ番組、書籍や雑誌などをチェックしてデータをとり、セクシーであること、セックスを消費することが強さと証と考える傾向が広まっていることを指摘している。


 で、そう書くと何かこれはアンチ・セックスの本みたいだが、この本が言っているのはたぶんそういうことではない。マッキノンやドウォーキンに関するまとめがついていたりするので著者はそのほうの文献もかなりよく読んでいるようだが、著者はどちらかというと途中で何度か出てくるエリカ・ジョング(女性がセックスできるようになるだけでは不十分で、仕事や政治で能力を発揮できるようにならねば意味がないと述べている)に賛同しているらしく、現在アメリカで性の解放と見なされているものはまやかしの解放であると考えているようである(そもそも「性の解放」という概念自体に問題があるとかいう議論はここではおいておく)。

 性的に挑発的だったり誰とでもセックスできる自由は十分な自由ではない。これは注目すべき唯一の「女性の問題」ではさらさらないのだ。そして我々はセックスの場においてすら十分自由ではない。好色な巨乳の露出狂という新しい規範、新しい役割をただ採用しただけなのだ。他にも選択肢はある。もし我々が本当に性的に解放されようとしているなら、多様な人間の欲望に見合うだけの幅広い選択肢をとる余地が必要なのである。(200)

 で、レヴィはアメリカで性教育に対する予算がカットされていること、同性愛者の結婚が認められていないことをあげて、こんなんでどの面下げて性解放だなんて言えるのか、的なことを言っており、少年少女への性教育、女性が自分の体とセックスについてきちんと考え選択できるような状況の整備、セクシャルマイノリティの権利侵害反対などをやるべきなのだと述べている。


 なお、レヴィの書き方は結構いい意味で嫌みというか皮肉がきいていて、カミール・パーリア(スーザン・ファルーディの『バックラッシュ』でもボロクソに言われていたネオリベ系のフェミニスト)が「スザンヌ・ヴェガのような女性の音楽」を大人しくてつまらないと批判している文章を引用したあと、『パティ・スミスやデビー・ハリー、ジャニス・ジョプリン、グレイス・ジョーンズをきいたことがないなんてカワイソーな人ね』的な皮肉を直接書かずに文章からいやーな感じで匂い立たせているあたりが面白い(109)。あとポルノスターのジェナ・ジェイムソンの発言について、『性的に解放されてると自称してるのに自分のヴァギナのことをding-ding(「バカ」というような意味だがこの文脈だと「チョメチョメ」とかが適切かな)とか言ってんのね』(183)みたいな皮肉をかましているのもちょっとウケた。まだそんな年じゃないみたいなのに、生徒がついたウソは全部お見通しのヴェテラン教師とかあるいは孫が悪いことをしたらすぐ感づくおばあちゃんみたいな感じがして鋭い。


 そんなわけで、書きぶりは結構挑発的なところもあるし、ポピュラーカルチャーの個々の作品の解釈についてはやや疑問のあるところもあるし、あとアメリカ文化のみを念頭に置いて書いているのでヨーロッパや日本には適用できないところも多いとは思うが、第三波フェミニズム以降のアメリカのpro-sex"フェミニズムの動きについてきちんとした取材に基づき批判をするという点ではとても良い本だと思う。


 しかしながら、アメリカでよく読まれているようなフェミニストの本って、なんかこういうアカデミズムじゃなくジャーナリズム系の人のものが多い気がする。ジュディス・バトラーの本なんか難しくて誰も読んでないと思うのだが、スーザン・ファルーディの『バックラッシュ―逆襲される女たち』はブリジット・ジョーンズにも出てくるくらい有名だし、『美の陰謀―女たちの見えない敵』を書いたナオミ・ウルフや『新しい女性の創造』を書いたベティ・フリーダン、ミズマガジンの創始者であるグロリア・スタイネムもアカデミアの人ではない。アカデミアでやってる研究にはもちろん意味があるが、こういうジャーナリズムの言葉できちんとした情報にもとづいて市民に自分の主張を伝えられる人がいないと、フェミニズムに限らずどんな政治運動も広がらないんだと思う。

注:名前の発音をあとで訂正しました。