新作映画『嵐が丘』を見てきた〜なんでゴシックホラー大河大ロマンスをリアリズムごときで撮るの?

 エミリー・ブロンテ嵐が丘』の新作映画化作品を見てきた。出来はいいと思うのだが、全体的にテキストをすごく即物的に映像化した感じで、台詞も少なく寡黙である。


 この映画化の一番の特徴は、初めて黒人の男優がヒースクリフを演じる映画だってことである。原作のヒースクリフは身元不明の肌が黒い子供ということになっているので、これは結構原作に忠実と言える。


 …とはいえ、実はこの映画はあまり原作に忠実というわけでもない。とりあえず1939年版と同様第二世代の話は全部カットされてるし、あとロックウッドの枠が一切ない(レイフ・ファインズジュリエット・ビノシュ版でもロックウッドの枠はなかったが、かわりにブロンテ本人が登場する枠があった)。ヒースクリフがなんか窓辺で落ち込んでいるところから突然子供のヒースクリフが拾われてくるところに飛び、そのまま話は直線的に進む。このロックウッドの枠をとっちゃったせいで話がやたらリアリズム的になっている。(このレビューでも言われているが、たしかに社会主義リアリズムみたいなとこある)。ロックウッド(あるいはフォークナーのシュリーヴ)みたいな「脇でボーッと話をきいてるだけのアホなよそ者」はゴシック大河には絶対に必要だと思うのだが、ロックウッドがいないせいでゴシック大河ふうなところが全然なくなった。


 全体的に撮り方もすごくリアリズム的。台詞は少ない上ヨークシャ訛りを用いているのであまり聞き取りやすくはない。説明的な場面もほとんどなく、ヨークシャの荒涼たる自然の中でそこらへんにいそうな人々がくっついたり離れたりするところをそのまんま撮る感じ。


 しかしながらよくわからないのは、この映画ってすごく左翼リアリズム的というか唯物的な感じに作っているのに、階級問題があまり出てこないところである。原作にある人種の問題は非常に強調されてて、ヒースクリフは黒人、ヒースクリフをniggerと呼んで執拗にいじめるヒンドリーはフーリガン(と言っていいのかわからないが、スキンヘッドでいかにもアレな感じの白人のにいちゃん)みたいになっている。ところが原作ではたぶん古くて粗野な感じでも結構大きな家であると思われるアーンショー家はこの映画ではちっちゃいボロ屋なのにリントン家はちゃんとした屋敷で、アーンショー家とリントン家が家風はかなり違っても同じ階級だというのがよくわからなくなっている。リアリズム的な映画化なら、もっとがっつり階級の話をするべきではないかと思うのだが。


 そういうわけで、今回の映画化は大きな二軒の家の間で繰り広げられる大河ドラマでも、フラッシュバックによって綴られる過去の物語でもなくなってしまっているので、原作の持っている神話的なゴシックホラーの雰囲気は完全に失われていると思う。原作のキャシーとヒースクリフの関係は擬似的な血縁関係にあるきょうだいの近親相姦っていうことで非常に神話っぽいと思うのだが、この映画ではそういう神話的枠組みが取り払われているので子供のキャシーとヒースクリフの愛情が非常に生々しく、ヒースクリフがキャシーの髪をやたら触るというところにそのへんがよく出ている。あとなんかヒースクリフがすごく弱い。ジェームズ・ホーソンは頑張ったと思うのが、『嵐が丘』にハマったことのある女子の多くが想い描いたであろうバイニックヒーロー的な色悪ヒースクリフではなく、無垢な子供がそのまんま幼馴染みへの執着を抱えたまま純情青年になったみたいな感じのヒースクリフなので、大ロマンスを期待していくと肩すかしをくらう。


 …まあそういうわけで、全体としての出来は非常にいいと思うのだが、私は全然好きになれなかった。まあ私はリアリズムがもともと嫌いだし(リアルに撮るのとリアリズム的に撮るのは違うから)、ゴシックホラー大ロマンスをリアリズム的に撮るとかいうのはバカげていると考えているところもあるので、つまんなかったのも当たり前だと思う。