ナショナルシアター『アテネのタイモン』〜I predict a riot!オキュパイvs資本

 

 ナショナルシアターで『アテネのタイモン』を見てきた。これ、シェイクスピアの中でも私が二番目くらいに低評価な戯曲だったのだが、公演を見て全く意見が変わった。これはミドルトンか誰かとの共作であろうと言われていて、都市喜劇ふうの(ミドルトンふうとも言えるかも)設定にシェイクスピアふうの悲劇的人物がいきなり現れるギャップがなんか私はあまり好きじゃなかったのだが、この公演を見てこれってこんなに面白い戯曲だったんだ…と思った。この芝居を褒めたマルクスは正しい。

 ナショナルシアターの公演はたいていそうなのだが、ニコラス・ハイトナー演出のこのプロダクションもすごいモダナイズしてあって、話は美術館かなんかにTimon Roomという部屋ができる時のセレモニーみたいな場面から始まる(これだけで「オッ」と目を引かれる)。タイモンはスーツを着た芸術パトロンだし、タイモンの友だち面をしておきながらあとでタイモンが困窮した時借金を拒否する連中もこぎれいなオフィスを持ってる議員だったりソーホーのポッシュなクラブにたむろすエリートたちだったり、最近の景気を如実に反映している。

 しかしながらこのプロダクションが一番すごいのは、去年のロンドン暴動とオキュパイロンドン参加者たちをアルシバイアディーズの反乱軍にしているところ。最初からエリート層の暮らしているところの裏にオキュパイ運動のテントがあったりセットも凝っていたのだが、第一部終結部のタイモンの最後の宴(この宴もきったなくてすごいのだが)から逃げてきた金持ちたちをバットとか棒みたいな武器で武装したフードの若者たち(mobとしか言いようがないのだが、ロンドン暴動でもありオキュパイでもあるような)が襲うところはあまりの不穏さに胃が痛くなった(若干のフラッシュバックが)。金がなくなった途端に上流階級から排斥され、廃墟とゴミ捨て場の中間みたいなところにショッピングカートを持って引きこもったホームレスタイモンのところにアルシバイアディーズの反乱軍がやってくるところは17世紀のモブでもあり、ロンドン暴動でもあり、オキュパイでもあり…タイモンが毒づきながら金を与える娼婦たちがこの演出では軍隊(というか軍隊というよりモブなのだが)の一員としてジーパンで戦闘意欲満々の若い女性たちとして描かれているあたりは非常にモダンで原作のミソジニー的なトーンを薄めているし、この貧しい若者たちの不満を象徴的に表しているようで良かった。タイモンがアテネをぶっ壊せ的なことを言いながらアルシバイアディーズのモブに金をばらまく場面はこのモブの「とにかく困窮していて不満があるのにそれを言語化できない、不満のためなら何でもする理念なき反乱軍」の不穏な感じが非常によく出ていて良い。

 芝居全体の構成からいうと、気前の良さを美徳としていたのに金がなくなっただけで排斥され、人を呪うことしかできなくなってしまったタイモンと、もともと貧しく不正に扱われていて金持ちたちに対する激しい怒りを持っているがそれをうまく言語化できずに暴徒になるアルシバイアディーズの反乱軍は同じ状況、つまり資本による支配を全く逆の方向から描いていると思う。上から下に転落したタイモンは悲劇的なキャラクターとして確立されているが(サイモン・ラッセル・ビールの演技がまるでリア王のようだった)、あらかじめ全てを奪われてそこから上昇を目指すモブは一人一人の顔が不明で全体として社会の不満を具現するものとして描かれている(アルシバイアディーズがリーダーであるという点でちょっと最近のモブと違う、というレビューもいくつか見たのだが、このプロダクションにおけるアルシバイアディーズってたぶんモブにとってはオキュパイにとってのアノニマスのマスクみたいな単なる団結の道具にすぎないんじゃないだろうか…)。

 あと、個人的にはオキュパイ運動とロンドン暴動を結びつけているところを評価する。これは批判もあると思うが、先日書いたとおり私は「理念ある運動」と「言語化されない不満の暴力的発露」を完全に分けることは問題の解決にならないと思っているので、両方を取り入れて消化したハイトナーの大胆な演出技術はすごい評価できると思った。


 まあそういうわけでこのプロダクションは現代における資本の支配とそれに対する不満をおそろしくリアルに描き出したとても良い公演だったと思う。なんかいろいろなものを思わせる公演だったのだが、何に似てるかって言えばカイザー・チーフスの曲に一番雰囲気が似てるかも。