藤澤博康「『ソネット集』における嗅覚 『ソネット集』と五感研究への試論」

 藤澤博康「『ソネット集』における嗅覚:『ソネット集』と五感研究への試論」『英語英文學研究』56(2012)、27–38を読んだ。こちらのリポジトリからダウンロードできる。

 この論文はアラン・コルバンなどによって始められた「感性の歴史」研究をふまえ、初期近代の詩人たちはいろいろな五感をどのように表現していたのか、という問題意識をもとにシェイクスピアソネット集を読み解くものである。初期近代の文芸における感性の表現というのは最近よく見かけるテーマだと思うし私も共感覚の方面から興味があるのだが、この論文が述べているようにたしかにソネット集については五感の表現のみに焦点を絞った分析がまだそれほど進んでいないように思えるので、こういう研究は大変意義のあるものだと思う。

 そもそもジョン・サザーランドが『ヒースクリフは殺人犯か?―19世紀小説の34の謎』で指摘しているように、19世紀以降の英文学及びその批評というのは感覚、とくに嗅覚についてかなり禁欲的(ピューリタンというべきか)で、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』みたいに五感、とくに嗅覚の表現が巧みに使用された作品というのは散文ではあまり多くはない(ロマン主義の詩は別)。それこそこの論文で述べられているような「感覚の饗宴」が19世紀的なやり方で絶賛開催中である『ドリアン・グレイ』はふしだらでスキャンダラスな小説扱いされたし、逆方向に感覚的でドブ川のにおいがするジョイスの『ユリシーズ』も出たときは汚いということでずいぶん批判された(どっちも作家がアイルランド人だな)。しかしながら少なくとも私が知っている限りでは、イギリス・ルネサンスの演劇や詩というのは散文の小説が流行るようになる18世紀以降に比べるとはるかに感覚の表現が豊かだと思う。ロマン主義全開のシェリーやキーツあたりの詩も感覚表現がかなり豊かだと思うので、このあたりはイギリスの散文というものの限界なのかもしれない…が、まあひょっとするとヴィクトリア朝の禁欲的かつ合理主義的な価値観に自然と毒されてしまっているのかもしれない我々にとっては、それ以前の詩に書かれた感覚表現に着目することは詩を愉しく読むためには実は必須のことなんじゃないかと思う。
 
 この論文はソネットにおける詩人の脳内恋人である「若者」と「黒い女」がどのように描き分けられているのか、感覚表現をもとに分析している。ソネットを読んでいくと視覚や嗅覚が高級な感覚として若者に結びつけられる一方、触覚や味覚は低級な感覚として黒い女を描き出す際に用いられていることがわかるということで、これは非常に説得力あるしすっきり論じられている(性欲と食欲の結びつきという点ではこの間レビューしたウェルズの論文とややテーマが重なる)。しかしながら視覚は儚いものである一方、バラの香りを蒸留によって香水にできるように、嗅覚は技術を用いて保存することができるものでもある。この論文ではソネット集に出てくる蒸留の比喩を家庭での蒸留技術に即して論じる方向に行っており、錬金術の蒸留とあまりにも強くこの比喩を結びつけることに注意を促していてそれも非常に面白い論点だと思う(なんでもかんでも錬金術の話に持っていくのはちょっとどうかと思うこともあるので)。


 ただ、この論文では論じられてないところだけど私が面白いと思ったのは、蒸留という技術によってバラの香りが保てる、というのをこのソネット集の文脈で人間に持っていくと、つまり人間の美はセックスで生殖することによって子供を作ることで保てる、ということになるので(ソネット集の最初のほうは若者に結婚と子作りを勧める内容)、蒸留=セックスということになるのではないか、ということである。このソネット集ではひょっとして蒸留もセックスも保存への執着に基づく人為的技術なんじゃないだろうか。Aaron Kuninが‘Shakespeare's Preservation Fantasy’(PMLA 124, 2009)でシェイクスピアソネット集からキンクスまでに至る英詩における「保存」への執着を論じてるのだが、どういう技術で儚い五感の感触を保存するか、っていうのもそれはそれで面白いテーマだと思う。


 なお、この論文については既にid:nikubetaさんが簡単なレビューを書いているのでそちらもどうぞ:「感覚から読むシェイクスピア 藤澤「『ソネット集』における嗅覚」」