歴史は繰り返す〜斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』

 斉藤光政『偽書東日流外三郡誌」事件』(新人物往来社、2010)を読んだ。ニセ歴史に興味ある人の間では前から有名らしい本の文庫版である。


 著者はジャーナリストで学者ではないのだが、東奥日報の司法担当の記者だったのがふとしたことからあやしい古文書『東日流外三郡誌』関連の著作権問題訴訟を調査することになり、どんどん(いい意味で)深みにはまっていって偽書の疑いもある古文書の真贋問題に関して粘り強い取材を続けていくという話になっている。

 まずはニセ歴史に関する本として面白い。今からすると、東北の歴史を覆すような内容が書いてあると言われる『東日流外三郡誌』は和田家文書というもののひとつで、どう見ても来歴があやしいニセ文書のように見える…のだが、これがあまり学術的なチェックも受けずに町おこしに利用されたりしてしまったあたりを見ると、もうちょっと専門家を尊敬することの重要性を痛感させられる。ニセ歴史はニセ科学と違って死ぬ人はいないとか思ってる人もいるかもしれんが、ニセ歴史のせいで大金をだまし取られる人が出たり、もっとひどい場合はニセ歴史文書のせいで差別があおられたりすることもあるので(この事件の場合はお金が動いたというほうが大きいだろうが)、ニセ歴史というのは思ったよりもずいぶんと害を及ぼすものなのである。しかしながらこういう文書が信じられ広まってしまったのは、東北という地方の人々が中央に対して抱いている対抗意識や郷土愛(愛国心ではなくむしろそれと対立するものだろう)が根底にある…という話題もけっこう掘り下げられており、私のような地域主義者からするとこういう郷土に関するコンプレックスや理想、ロマンティシズムにつけこむニセ文書づくりというのは許しがたい卑怯なものに思える。

 またまたこの本はジャーナリストの報道姿勢に関する本としても面白い。著者の斉藤はこの文書は真正だと主張する人たちばかりじゃなく歴史学者のところにもきちんと話を聞きに行って「絶対にこれはあやしい、たぶん偽書だ」ということを地道に報道し続けるのだが、一方で他の新聞社がたいした取材もしないで飛ばしに近い記事を出したのを苦々しく見つめたりするという話ものっている。しかし、文書支持派に肩入れしたような記事が一度でも出てしまうとあとで訂正が入っても支持派はそれを自分たちの権威づけに利用するようになり、訂正記事はあまり出回らない…というような困った話ものっており、歴史に限らず政治でも科学でも芸術でもきちんとジャーナリストが裏をとって報道するというのは実に大事だと思った(これは原発報道なんかでも起こっていることだと思うが)。

 あと、面白いのは今の首相の父である安倍晋太郎も『東日流外三郡誌』ブームにのせられ、「ご先祖ゆかり」とされていた土地の訪問をやっていたというくだりで、これを読むと安倍家の連中のニセ歴史趣味というのは親の代からなんだなぁ…と呆れるやらなんやら。とにかく広い意味で自分の先祖をヨイショしてくれるニセ歴史が好きなんだねぇ。ある種の権威主義血統主義なんだと思うけど。