この物語に神の介在は必要か?チュイテル・イジョフォー出演、ナショナル・シアター『万人』(Everyman)

 ナショナル・シアターでチュイテル・イジョフォー主演の『万人』(Everyman)を見てきた。中世イングランドの道徳劇の中でも最もよく知られている『万人』(Everyman)を桂冠詩人のキャロル・アン・ダフィが現代風に翻案したものである。

 中世の道徳劇というのは、既にこちらで書いたように、「美徳」(Virtue)とか「悪徳」(Vice)というような抽象的な人格や性質の名を冠した登場人物が出て来て、いろいろな教訓を説くことでキリスト教の道徳を教える芝居だ。主人公は「人間」(Mankind)とか「万人」(Everyman)とか、普遍的な人類全体をあらわす名がつけられており、これを堕落させる悪徳や向上させる美徳が全て擬人化されて出てくる。『万人』は、主人公であるエヴリマンが「神」の命令により「死」に召還され、死ぬ前の人生の清算のため友達や親戚、その他いろいろなモノ(Goodsっていうモノの擬人化が出てくる)に頼るが誰も助けてくれず、「善行」は今までないがしろにされすぎてきたせいで弱っていて…という話である。最後はエヴリマンが自らの生を見つめ直した後に死んで終わりである。

 このプロダクションの設定は完全に現代で、チュイテル演じるエヴリマンはロンドンのリッチなビジネスマンだ。40歳のパーティをコカインまみれのどんちゃん騒ぎで祝う物質主義的なエヴリマンに幻滅した神(女性で、人間の犯した悪行を清掃する掃除婦として登場)が、「死」に命じてエヴリマンを召喚するところからはじまる。物語はかなり原作に忠実だが、全体としては現代人の拝金主義、物質主義が最大の悪徳として強調されていて、物質中心主義を象徴するGoodsは金ぴかの衣類で出てくるし、「善行」はゴミだらけの街角で弱っているホームレスのように描かれている。セットはシンプルで、穴があいて低くなっているところをもうけた床にテーブルなどを持ち込んで上演する感じなのだが、サイケデリックな照明と現代的な音楽が用いられ、仮面をつけた人々の踊りなどもあって、演出スタイルは中世劇というよりはパフォーマンスアートといったほうがいいようなものである。

 エヴリマンを演じるチュイテルはたいへん良かった。普遍的な「万人」でありながら観客に訴えかけるカリスマ性があり、動きもエネルギッシュだし、死を受け入れるあたりの表情などもとても繊細だ。音楽や照明もたいへんうまく使われており、セリフと呼応してある種共感覚的な面白さを醸し出し、見た目にも飽きない。もともとの芝居の抽象的な要素をきちんと消化したいいプロダクションだと思う…のだが、個人的にあまり乗れなかったのは、現代において人が死を目前に自分を見つめ直すという物語を語るにあたって神の介入は必要なのか、というところである。原作は地獄の業火、キリスト教の信仰による畏怖が大きなポイントであるのだが、このプロダクションは原作からこうした信仰にかかわる部分をかなり抜き、世俗的な倫理、物質主義的な社会に対する諷刺として『万人』を演出している。しかしここまで世俗的な倫理の物語にしてしまうと、もう神が登場する必然性がなくなってしまうのではという気がする。神を女にするという工夫は面白いが、コンセプトとして神の介在が生きているのかどうかはちょっと疑問である。