独白は顔だけでやるもんじゃない〜ファスベンダー版『マクベス』

 ジャスディン・カーゼル監督『マクベス』を見てきた。マイケル・ファスベンダーマクベス役、マリオン・コティヤールマクベス夫人役である。

 非常にちゃんとしたマクベスである。スコットランドの荒涼とした大地を舞台に残虐な血みどろの戦いが繰り広げられる『マクベス』で、地方性を重視した演出はジェームズ・マカヴォイが主演した2013年の舞台版にちょっと似ているかもしれない。映画らしく雄大な風景を撮っているし、最初に原作にはないマクベス夫妻の子どもの葬儀の場面を出して「マクベスの子どもたち」という批評でも演出でも問題になるところにきちんと目配せしているのもいい。主演の2人の演技はよく、とくにファスベンダーは荒っぽく中世的なマクベスだった。「トゥモロー・スピーチ」で、マクベスマクベス夫人の死体を抱いて話すところの演出は素晴らしく、妻が亡くなった悲しみと迫り来る戦の不安に、それでも先に進むしかない運命の力が垂れ込めてくるようなファスベンダーの感情表現と撮影はすごくいい。『蜘蛛巣城』には負けるが、個人的な好みでは私はポランスキー版よりいいかもと思った。


 ただ、ちょっとどうかなーと思うところもたくさんある。まず、やたらに前半カメラを揺らすのは良くない。役者の演技をじっくり見せないところでカメラが揺れたりするとかえって焦点がブレるし、臨場感は増えない。あと、シェイクスピアを撮る時にありがちな、長いセリフでクロースアップにしてカメラを動かさない撮り方がやや単調である。独白は顔ではなく全身でやるものだし、また独白というのは、これは私の意見なのだが「自分vs自分の内面」だけじゃなく「自分vs世界」のイベントだと思うので、ちょっと「世界」を何かの方法で見せたほうがいいと思う。演劇にあって映画にないのはクロースアップなので、独白で表情を見せたくなるのはまあわかるのだが、せめて一回くらいはカメラを引いて全身を映すとかいうことをしないとかえって面白みが減ると思う。この長台詞の処理というのはシェイクスピアを撮る時にはなかなか難題で、『ホロウ・クラウン』では役者を歩かせたり、ボイスオーバーにして変化をつけていたのだが、たぶんそういうトリックを使ったほうがいい(その点、アルメレイダ版『ハムレット』とか、ちょっとキザだが長台詞とかの処理はけっこううまいかもしれない)。

 原作から演出が変更されているところについても、ちょっとあまり処理がうまくないかもと思うところがいくつかあった。まず、城ではなく天幕でダンカンが殺されるので、隠密行動的なイメージが薄れて、マクベスがちょっと不用心な人に見えるのはあまりよくないかもしれない(開けっ放しの天幕に入っていくみたいに見える)。また、城ではなく天幕に設定を変更したせいで、有名だが全体のトーンからすると演出が難しい「門番の場」(コミカルな場面)はカットされており、このためマクベス夫人が狂気のセリフの中でノックの音に言及する意味がよくわからない。ノックの台詞もカットするか、殺害場所をやっぱり城にしたほうがよかったのでは?

 なお、この映画はベクデル・テストは満たさない。ただ、魔女たちの台詞がちょっと微妙ではある。