16年間の父親教育〜ブラナー・シアター・ライブ『冬物語』

 ブラナー・シアター・ライブ『冬物語』を見てきた。ギャリック座での上演を撮ったものである。
 リオンティーズにケネス・ブラナー、ポーライナにジュディ・デンチという強力な布陣である。美術や衣類はルネサンスふうではなく、スーツに近い格好だったり礼服も19世紀ふうでわりと新しめ(といっても今ではない)にしてあるのだが、農村の衣装などはいくぶん牧歌的に理想化されている。第一部と第二部の間に16年もの年月が経過する物語だが、枠としてはクリスマスツリーが飾られ、ポーライナがマミリアス王子とツリーのそばで座って語らう冬から祭りが行われる晩夏になり、最後は冬というふうに季節が移り変わるので、全体としては冬の夜長のおとぎ話のような雰囲気にまとめられている。
 そんなに奇をてらった演出は無く、丁寧な仕上がりだ。全体的に女性が大人としての成熟、男性が未成熟な状態から成長していくものとして描かれているように思った。シェイクスピア劇ではだいたい女性のほうが変化が少なく、男性のほうが劇的に変化するので、これはオーソドックスと言えると思う。
 このプロダクションのリオンティーズは、自分の子ども時代の思い出にしがみつき、ポリクシニーズへの少年らしい愛情を持ち続けている人物として演じられている(最初、ふたりの少年時代の様子をモノクロ映像で皆が見て楽しむという演出がある)。立派なおじさまのように見えるブラナーのリオンティーズだが、年下でも大人として責任感を持った振る舞いをする妻ハーマイオニよりも精神的にはずっと幼い。ポリクシニーズが大人になって自分以外の人々(ボヘミアにおいてきた自分の家族はもちろん、リオンティーズの妻ハーマイオニとも成熟した成人同士の友情を築いている)とも親しくしていることに対して、リオンティーズはまるで大事にしていたおもちゃをとられた子どものように不機嫌になり、嫉妬心を抱くようになる。リオンティーズは権力を持っているのでたちが悪く、この子どもっぽい嫉妬心を成熟した妻のハーマイオニに転嫁して完全に暴君のように振る舞い、権力を濫用するようになる。さらにリオンティーズは父としても全く成熟しておらず、マミリアスの状態は把握していないし、パーディタに対しては自分が父であることすら拒否する。
 このリオンティーズに対して政治的対決を挑むのがポーライナである。デンチ演じるポーライナはかなり卓越した政治家で、大人の女性としての知恵も弁舌も経験も備えており、いつ強引に押すべきか、いつ慈悲に訴えるべきか、いろいろな対人関係のコツを心得ている。どうも自分がおばあさんであるということも計算に入れているようで、リオンティーズの再婚問題については若い側近たちに対して強情に「老婆心」を発揮し、お婆さんのわがままと見せかけて実は深い計略が…みたいなところもなかなか面白い。ポーライナは母、教師、政治家として、見た目は立派な王らしくしようとしているが実は子どもっぽい嫉妬心に満ちているリオンティーズを16年間かけて教育し、最後にこのポーライナの力で再会がもたらされる。リオンティーズをまともな夫、父、王とするためにはこれくらいの年月が必要なのだ。この16年間はパーディタだけではなくリオンティーズが大人になるための時間である。
 一方で大人同士のつきあいではわりとちゃんとしているポリクシニーズも息子フロリゼルのことになるといささか思慮が足りなくなってしまうような人物として演じられており、これは妻に対してまともな大人らしく振る舞えないリオンティーズと対比になっていると思った。フロリゼルはさわやかな若者だが、年下でまだ世間のことをよく知らないパーディタに比べてもずいぶんと子どもっぽいところがあり、父親との関係について甘く考えていたようだ。さらにカミローも善良ではあるが故郷を思う気持ちが強く、やはり彼もノスタルジア、若き日に対する郷愁に溺れがちなところがある。ポーライナを筆頭にハーマイオニやパーディタが年齢より老成しているのに比べて、男たちは実に子どもっぽく、芝居の最後までにいろいろ苦労して成長しないといけない。
 こういうわけで大人の知恵の力とでもいうものを称える演出になっていると思うのだが、あまりおじいさんおばあさんばっかりのお話みたいにならないよう、中盤はボヘミアの村祭りで若者たちの恋のさや当てを盛り上げている。わりと激しい音楽で、男たちは上半身服を脱ぎ、意中の娘に口づけしながらぴったりくっついて踊るセクシーなダンスが組み込まれており、ここは若々しいエネルギーを感じさせる。終盤は丁寧な演出で最後のハーマイオニが生還するところまでを盛り上げているので、改心したリオンティーズがハーマイオニに許しを請うところは非常に心に迫るものがあった。