ここ数日よく読まれているらしい、佐藤由美子さんの「日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策」というエントリを読みました。こちらは月末の学会で発表するための準備のようなものだということです。
こちらについて、日本語版ウィキペディアに歴史修正主義がはびこっているとか、間違いだらけだということについては私もとくに異論はないのですが(間違いだらけで信用できないということは私もメディアに出るたびに言っているし、できるところは対処してます)、いくつかけっこう大きな事実誤認や、ウィキペディアの手続きに関する理解不足と思われるところがあります。ブログのコメント欄に書いて指摘したのですが、スパムフィルタか何かに引っかかったのか反映されていません。学会で発表するということであればウィキペディアじたいの仕組みについて誤解があるままだとあまり良くないだろうと思うので、こちらの佐藤由美子さんのエントリ及び学会発表要旨について改善できそうなところについて、コメントをしておきたいと思いました。
誤り(1)全保護と半保護の区別がついていない
ブログには「そもそも「南京事件(南京大虐殺)」のページは、編集ができないようになっていました。このページは管理者(英語:administrator)が誰も編集できないように「保護」の状態にしています。このページを編集できるのは管理者だけです」とありますが、これは間違いです。[[南京事件]]は半保護ですので(保護記録はこちら)、自動承認された利用者は編集できます。自動承認された利用者というのは「新規登録(初ログイン)から4日が経過し、かつ10回の編集」を行った利用者を指し、これ以上の経験がないと編集できないということは、つまり新しくアカウントを作って荒らす人、よくルールを理解せず誤った編集をする人を防ぐための措置です。佐藤さんが南京事件を編集できなかったのはベテランユーザではないからだと思われます。
正直、南京事件みたいな話題だと編集合戦を始める人が多いので、私はこの手の記事は拡張半保護というもうワンランク上の保護だろうと思っていたのですが、思ったより低レベルの保護でした。荒らしが多い記事、編集合戦になりやすい記事は歴史系にかぎらず([[ビーフストロガノフ]]とか)たいてい半保護か拡張半保護されています。なお、管理者しか編集できないレベルの保護は「全保護」といいます。メインページとかが全保護されています。ウィキペディアにおける記事の保護はよくあることで、利用者の経験によって編集できるレベルが違ってきます。
誤り(2)ルールを守らない編集は差し戻される
ブログには「私が行ったすべての編集は、数時間後にすべて元に戻されてしまいました」とありますが、もし佐藤さんのアカウント履歴がこれだとすると、全てノートでの議論を経ない無出典記述の追加あるいは出典のある記述の除去なので、まあふつうは差し戻されると思います(なお、差し戻した人は管理者ではありません)。ウィキペディアには[[Wikipedia:出典を明記する]]という重要な決まりがあり、新しい記述を加える際には学術論文など信頼できる二次出典で出典をつけなければなりません。誰も見ないような過疎記事とか荒れない芸能人の記事とかだとあまり皆気付かずに無出典記述がそのまんまになっているものも多いのですが、この手のコントロヴァーシャルな記事で出典なしの加筆をするとたいがい消されます。この後に同じ記事に出典つきで似た様なことを加筆した別の編集があるのですが、それは消されていません。これはルールを守っているためです。また、出典のある記述を除去する時はノートで議論を提起して合意をとらないと、やはり消されるかと思います。
なお、佐藤さんのアカウントが本当にこちらのアカウントだとすると、ウィキメディア財団から言われた「ガイドブックをご覧になって、項目のノートページにコメントをお書きください」というアドバイスには従っていなかったということになります。議論のある記事を大きく改稿する際にはノートでまず議論、というのがどの言語版でも標準的な手続きのはずですので、それは守らないといけません。ノートで議論せずに記事を大きく変更しようとすると差し戻されます(違うアカウントでしたら大変申し訳ありません。でも書きぶりからしてノートで議論した形跡がないので、まずは財団に言われたようにノートで議論してください)。
誤り(3)管理者の人数などのデータが古すぎる
ブログには「登録されている118,000人のユーザーのうち、「管理者」はわずか56人(0.29%)」とありますが、この数字はいずれも間違っています。現在の登録利用者は1,736,252人、アクティヴユーザは14,722人、今の管理者は40人です。なんでこんな数字が…と思ったら、引用されている資料が2007年のものでした。こんな古い統計が今、使えるわけはないです。
なお、管理者について「つまり、ごく少数の人々がプラットフォームをコントロールしているのです」とありますが、これは全く逆です。管理者というのは 立候補者の中からコミュニティの選挙で選ばれますが、全くお金は出ない上、たいした権限はなく(コミュニティルールで決まっていることしかできず、違反して勝手に何かやると解任されるし、管理者権限を行使せず怠けると自動的に退任になります)、休みに入るたびに「あああああ」とか「バーカ」とかに記事を書き換えたりするようなくだらない荒らしがたくさん発生してそれに即時対応しなければならず、ちょっと失敗するとすぐ叩かれる管理者になりたい人はめったにいません。管理者というのは学会の役員みたいなもんで、無給の面倒な仕事です。結果、日本語版では管理者が全く足りておらず、問題のある記事が放置されている状態です。
その他
「間違い」とかではないのですが、たぶんあまりウィキペディアの仕組みが理解できていないと思われるところとか、指摘したいと思われるところがいくつかあるので、それを下に書きます。
- 「日本語版ウィキペディアが「日本の戦争犯罪」をホワイトウォッシングしているのと同じく、英語版ウィキペディアでも「アメリカの戦争犯罪」について同じことをしているのではないか?」→この発想は別に間違ってはいないのですが、英語版ウィキペディアは「アメリカのウィキペディア」ではないことにご注意ください。日本語版ウィキペディアも「日本版」ではなく「日本語版」で、我々は国ではなく言語でまとまったコミュニティです。とくに英語版はカナダ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリア、インド、アフリカ諸国など英語を話すアメリカ以外の国や、私のように英語を第二言語としている他の言語版のウィキペディアンも編集するので、国に偏った記述が減少しやすい傾向はあるでしょう(それでもアメリカ中心すぎるとよく言われますが)。
- 「日本語版やクロアチア語版などのウィキペディアは、英語版と比べてはるかに孤立しているため、特定のトピックにおいてバイアスが掛かる可能性が高いのです」→クロアチア語版の問題は管理者にまずい人がたくさんおり、乗っ取りみたいな形で権限を悪用したのが大きな要因なので、管理者が足りなくて全てほったらかし、匿名ユーザが変なことを書きまくっている日本語版とはちょっと状況が違います。なお、最近では英語版から孤立していないはずのスコットランド語版(話者のほとんどは英語ができると思われる)でほぼスコットランド語ができない人が管理者になってスコットランド語版ウィキペディアをメチャメチャにしたという大事件も発生しています。ただし、125万記事に近づこうとしている日本語版に比べると、クロアチア語版は22万記事、スコットランド語版は4万2千記事でかなり規模が小さく、その分少数のユーザでメチャクチャにしやすいという要因があるでしょう。
- 「このような行為は”ホワイトウォッシュ(whitewash)”と呼ばれます。物事をごまかし、罪や事実を隠すという意味の動詞です」という表現について、これは全く間違ってはいないのですが、日本とかアジアの国が絡んでくるところで「ホワイトウォッシュ」を使うと、英語圏の人がまず思い浮かべるのは「白人化する」のほう、つまりもともとは非白人だったフィクションのキャラクターとかを翻案に際して白人にするとか、そっちのほうではないかと思うので、一聴した時のわかりやすさを考えると違う単語を選んだほうがいいのではないかと思いました。
- 「管理者のトレーニングを含む監視(英語:oversight)を提供する」→オーバーサイトというのはウィキペディアでは違う意味で使われているので、ウィキペディアの文脈では違う意味でこの語を使用しないほうがいいです。混乱を招きます。
- 学会発表の要旨に"I’ve tried to inform Wikipedia about this problem and suggest a design change, but after a month of trying I couldn’t even talk to the right person."「ウィキペディアにこの問題を知らせてデザイン変更を示唆しようとしましたが、一ヶ月試みても適切な相手と話すことすらできませんでした」とありますが、これは当たり前です。ウィキペディアのデザインなどをそこまで大きく変更するにはコミュニティにはからないといけませんし、そもそも日本語版ウィキペディアにはチャプター(日本支部)がなく、完全にボランティアによって自由に運営されている組織なのでthe right personはいません。ウィキペディアはいっぱい決まりがありますが、それはヒエラルキーをあまり作らずに荒らしを防ぐためで、言ってみれば官僚無き官僚制です。何か提案したいのであれば、ノートでコミュニティに提案することです。
参考文献
以下に参考文献として、学会発表前に読むとよいかもしれないものをリストしておきます。大変恐縮ですが、ほとんど自分が書いたか、コメントしたものばっかりになってしまって、すいません。
- 北村紗衣「ウィキペディアにおける女性科学者記事」『情報の科学と技術』70 (2020): 127-133。(特筆性とか手続きの問題、またウィキペディアのジェンダーバイアス改善の動きなどについてはとりあえずこれをどうぞ。無料公開されています。)
- 北村紗衣「「ウィキペディアとフェミニスト批評」前編、中編、後編、世界思想社、2020年11月27日。
- 木許はるみ「「100%デマですやん」 ある日ウィキペディアに自分の名前が載ってしまったら…」毎日新聞、2020年11月30日。
- 日下九八「ウィキペディア:その信頼性と社会的役割」『情報管理』55.1(2012)、2-12。(日本語版の信頼性についてはこれを読むといいと思います。)
- 杉浦幹治「ウィキペディアで加筆と削除の応酬 池袋暴走事故めぐり」朝日新聞デジタル、2020年9月25日。
- Dariusz Jemielniak, Common Knowledge?: An Ethnography of Wikipedia, Stanford University Press, 2014. (これは最近読んでとても良かったやつです)
Common Knowledge?: An Ethnography of Wikipedia (English Edition)
- 作者:Jemielniak, Dariusz
- 発売日: 2014/05/14
- メディア: Kindle版
補足(1/19)
1/17付けで佐藤さんは以下のような補足をブログに付け加えられました。コメントに書き込んでも承認されないようなので、こちらのエントリにこの補足に対する批判を書きます。
訂正:「南京事件」のページは厳密には「半保護」という状態になっていて、管理者に加えて「自動承認された利用者」が編集できるそうです。いずれにしても、編集するには「ウィキペディアに関するかなりの知識が必要」であり、これもその例のひとつだと思います。(1/17/2021)
これには本文での主張との間に矛盾があります。本文では、日本語版ウィキペディアで発生する問題を解決するための策として「登録ユーザーのみが編集できるようにする」ことを提案しておられます。半保護は「登録ユーザ」のうち、新規登録後4日以上たっていて、10回編集したことがある人だけが編集できるようにするシステムの一種です。これはつまり、ウィキペディア側で既に佐藤さんが提示された解決策と相当に似たことを記事ごとに行っていることになります。半保護された記事は登録ユーザしか編集できないからです。
さらに半保護された記事を編集できる条件について「ウィキペディアに関するかなりの知識が必要」だと言っておられますが、10回の編集というのは知識のうちにも入りません。誤字とかを直していたらすぐそのくらいいきます。半保護は無登録ユーザ、荒らすためだけに新規アカウントを作るようなユーザが編集できないようにすることを目的とするシステムです。
本文中で「登録ユーザーのみ編集できるようにする」ことを提案しつつ、補足ではそのシステムは「ウィキペディアに関するかなりの知識」がないと編集できないようにするものだという批判をするのは論として矛盾しているので、学会のようなところだとツッコまれると思います。私なら質疑応答で突っ込みます。