わざと良い音楽を使わない音楽映画~『ポップスター』

 ブラディ・コーベット監督作『ポップスター』を見た。ナタリー・ポートマン主演、音楽はシーアが担当している。

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 ヒロインのセレステは14才の時に学校で銃乱射事件の被害にあう。姉のエリーと一緒に制作し、追悼イベントで歌った曲が注目され、2人はすぐに音楽活動を始めるようになる。しかしながらセレステとエリーは恋愛問題などで仲をこじらせ、セレステは突然押し寄せた名声に対応できなくなりはじめる。31才になったセレステは新たなスキャンダルに巻き込まれ、娘との仲もうまくいかず…

 

 音楽映画とは思えないほど野心的で前衛的とも言ってよいような作品である。いくつかのパートに分かれているのだが、最初にクレジットが一部出るとかいう変わった形式だ。序盤ではセレステはクリスチャンポップ的なものをやっていた純朴な少女なのだが、すぐにスターダムの誘惑に屈して遊びはじめ、中盤以降はキラッキラの衣類を身にまとうスキャンダルまみれの派手なポップスターになっている。このあたりのスキャンダルの描き方がえらくリアルで、酒と薬のやりすぎで交通事故も起こしたリンジー・ローハンとか、子役スターからスキャンダラスなスターになったマイリー・サイラスとか、クリスチャンミュージック育ちでお騒がせセレブになったシンプソン姉妹とかを思わせる。

 そして、全体的に映画に出てくる音楽としてすごく魅力的に思える楽曲がほとんどない…というのもポイントだ。最後に大きなドームでのセレステのライヴがあり、見た目はレディ・ガガとかマドンナとかいろいろなポップスターのステージに近いのだが、あのへんの楽曲に感じられる独特のパワフルさとかアーティストのクセみたいなものがほとんど感じられず、歌詞もサウンドもすごくのっぺりしていて、いかにも「中くらいの出来」みたいな音楽だ。このへんの個性が強いアーティストのアルバムの何曲目かくらいにちょろっと入っていそうな雰囲気のどうということもないラブソングを二番煎じのヴィジュアルでやっている感じで、これは明らかに意図的だと思う。シーアが本気を出して書いたらたぶんもっと痛々しかったりミステリアスだったり、なんらかのクセがある楽曲になるように思うのだが、これはたぶんボロボロでスキャンダルまみれになり、正直ちゃんと才能が発揮できているのかあやしいセレステが歌いそうな曲ということで作られているのだろうなと思った。それでも最後まで音楽をやろうとするセレステのスターの業みたいなものがありありと現れてくる終わり方で、このあたりはとにかくポートマンの演技が凄かったと思う。

時系列の入れ替えによるある種の爽快さ~『スウィング・キッズ』(ネタバレあり)

 『スウィング・キッズ』を見てきた。

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 朝鮮戦争時、北側の兵士で捕虜となった者を収容していた巨済捕虜収容所で、プロパガンダの一種として実施されたタップダンスチームを主題とする作品である。物語の大部分は架空であるようなのだが、捕虜収容所でしょっちゅう血なまぐさい抗争や暴動があったのは史実だそうで、そのあたりに基づいているらしい。

 元ブロードウェイダンサーだったというアフリカ系アメリカ人の軍人ジャクソン(ジャレッド・グライムズ)は、収容所の雰囲気改善・イメージ向上のために所長がぶちあげたダンスチームプロジェクトをまかされる。オーディションをするが、チームで使えそうなのは一応、経験者であるらしいカン・ビョンサム(オ・ジョンセ)とシャオパン(キム・ミノ)だけで、さらにシャオパンは中国人であまり韓国語ができない。そこは強引に売り込んできた優秀な通訳の女性ヤン・パンネ(パク・ヘス)の力でなんとかカバーされるが、収容所中最も優秀なダンサーで、専門教育も受けていてプロレベルで踊れるロ・ギス(D.O.)はアメリカのものに敵意を抱いている革命戦士でチームに入りたがらない。お互いに人種偏見もあり、でこぼこチームだが、だんだんとみんなでダンスをする楽しさに魅せられていき…

 とにかくダンスが楽しく、さらにそれを効果的に撮っている。とくにふだんはアイドルグループで活動しているD.O.演じるロ・ギスは本当に踊りがうまくてプロらしい華があり、そりゃあたしかに収容所でこんだけ踊れたら目立って当たり前だろうと思った。音楽はわざとアナクロな使い方をしており、デイヴィッド・ボウイの「モダン・ラヴ」にあわせてロ・ギスが想像で踊る場面とヤン・パンネが踊る場面が並列されるところはこの映画のダンス描写の白眉だろうと思う。

 前半はかなりコメディタッチなのだが、後半は収容所の現実をつきつけるとてつもなく残酷でショッキングな展開になる。さらにロ・ギスの家族愛にかかわるトラブルなども絡んできて非常に暗い終わり方をする…のだが(ただ、これは悲劇にするためちょっと最後強引すぎるかもと思うところもあった)、そこであまりにもどんよりした終わり方にしないためエピローグ的な場面が付け加えられていて、それが非常に良い効果をあげている。途中でジャクソンとロ・ギスがダンス対決をするところがあるのだが、これは映像で見せられない。え、ここ見せないのか…と思ったら、最後にジャクソンの記憶の中のエピローグとしてこの場面が出てくるのである。ジャクソンの記憶の中にあるものなので美化されているのかもしれないのだが、このダンスシーンは本当に魅力的だ。これだけで芸術の力というものを感じさせる終わり方になっている。

「運命の男」とハードボイルドヒロインの誕生~『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(ネタバレあり)

 『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』を見た。言わずと知れたルイーザ・メイ・オルコットの有名作の映画化なのだが、まあセンスのない日本語タイトルがついている。グレタ・ガーウィグ監督作である。

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 お話は『若草物語』に忠実でありつつ、かなり変えている…というか、みんなが疑問に思いがちなジョー(サーシャ・ローナン)の結婚について、メタフィクション的なものすごくひねったオープンなエンディングを用意している。さらに時系列を乱した編集になっており、最初はなんか「え、もうローリーふられた後なの!?」みたいなところから始まってちょっと面食らったのだが、だんだん少女時代と現在の似たような体験が併置され、それがジョーの頭の中で物語になっていくプロセスを示すためにこういう構造になっていることがわかってくる。これは脚色としては大変凝ったうまいやり方で、古典の再構成としてはお手本にしたいくらいだ。

 

 この作品は女性にはいろいろな人生があり、結婚して幸せになる者もいればそういうことが向いてない者もいる、という生き方の多様性についての物語である。『若草物語』を最大限に現代的かつフェミニズム的に解釈した物語になっている。そしてそこでちょっと凄いというか画期的なのかもしれないと思ったのは、この作品は「女性監督グレタ・ガーウィグ」の作家性がめちゃくちゃ前に出ていて、しかもそれがなんか当たり前のように受け取られている、ということだ。

 とりあえず、ガーウィグは「芸術家として挫折する」ことになんかこだわりがあるみたいで、脚本と主演を担当した『フランシス・ハ』はダンサーとして芽が出ず振付師になる女性の話だったし、この作品には芸術家になれなかった女が3人も登場する。4姉妹のうち、作家になれたのはジョーだけで、メグ(エマ・ワトソン)は女優になれず、音楽の才能があったベス(エリザ・スカンレン)は亡くなり、エイミー(フローレンス・ピュー)はフランスに行って自分に絵画の才能がないことに気付き、結婚する。実はエイミーが一番厳しい選択をしていると思われ、この作品が『若草物語』の翻案としてはエイミーを比較的厚みのある存在として描いているのは、芸術を志す人間のほとんどはああなる、つまりどこかで才能がないとわかって辞めることになるからだ。エイミーがジョーの原稿を燃やしたのは、たぶんエイミーはアメリカにいた頃から、自分よりもジョーのほうが芸術の才があることに薄々気付いていたからなんじゃないかと思う。

 ここで考えなければならないのがキャスティングである。フェミニズムの活動家でおそらくこの中では一番、アイドル的な美人女優であると思われるエマ・ワトソンが女優をあきらめるメグ役なのはけっこうきつい…というか、私はエマ・ワトソンは好きだが、たぶんサーシャ・ローナンやフローレンス・ピューに比べると容姿が美しくてもキャラが薄いというか、雰囲気が穏やかすぎて押しが弱い。一番よく知られたフェミニズム活動家であるワトソンを、最も家庭的で古風な役柄であるメグにあてたというのは、ものすごく効果的だがある意味で意地悪でもある。一方、フローレンス・ピューはどこから見ても不屈の魂を持った女で、大変尊敬できる魅力的な人物だがすごく親近感が湧くかというとそういうわけでもなく、賢く現実的なエイミーにぴったりだ。

 そして『レディ・バード』からガーウィグ映画のヒロインをつとめているのがサーシャ・ローナンである。サーシャ・ローナンはアイルランド出身の美人なのだが、古典的な美女と言えるであろうエマ・ワトソンよりも雰囲気がだいぶ不思議ちゃん的で、妖精みたいに見える。そしてこれがたぶんガーウィグ映画の大事なところ…というのは、どう見てもジョーはガーウィグ監督の代弁者であり、監督が一番、自分に近いと思っているキャラクターだ。そしてローナンはたぶんガーウィグにとても近い知的で不思議ちゃんな雰囲気を持っている女優だが、ガーウィグより少しだけチャーミングだ。

 この「自分とほぼ同じ属性だが自分よりチャーミングな役者を自分の代弁者として持ってくる」というのは、アメリカの作家性の強い男性監督がえんえんとやってきたことである。マーティン・スコセッシロバート・デ・ニーロとか最近はレオナルド・ディカプリオを使っているのはそういうことだろうし、ガーウィグが一度一緒に仕事してもうしたくないと思っているらしいスキャンダルまみれのウディ・アレンとか(最近はジェシー・アイゼンバーグを使ってて最新作はティモシー・シャラメだ)、スパイク・リーもそうである。ガーウィグによるローナンの使い方は完全にこの方向性だ。

 そしてものすごく大事になってくるのがティモシー・シャラメである。ローリー役のティモシー・シャラメは、まあ、誰が見てもうっとりするほど美青年だ。私はこの映画を見た後、あのローリーから髪の毛を乱して求愛されて断れるかを小一時間くらい真剣に考えたのだが、自分の意志の弱さでは無理だという結論に達した(現にジョーだって最後ちょっと日和っているじゃないか)。しかしながらサーシャ・ローナンは『ブルックリン』で自分の人生を歩むためドーナル・グリーソンを断るという偉業を既に達成している。ジョーみたいに自分の人生を歩むためには、美男にやすやすと惑わされないサーシャ・ローナンのような強固な意志が必要なのである。

 それで、この強い意志でとんでもなく魅力的な男を断るというのは何なのだろうか…と考えたのだが、これ、古典的なハードボイルド映画の裏返しだと思う。ハンフリー・ボガートはえげつないくらい美しい女に求愛されても、自分や相手の人生に悪い影響が及ぶと思ったら鋼鉄の意志で断れる。『マルタの鷹』のスペードはオショーネシー(メアリ・アスター)を愛しながら警察に突き出したし、『カサブランカ』のリックは愛してるイルザ(イングリット・バーグマン)を夫のもとに返した。ハードボイルドヒーローには自分の道があるので、美女とベタベタして暮らしたり、穏健な家庭生活をしたりする暇はない。ティモシー・シャラメは『レディ・バード』でもヒロインのサーシャ・ローナンを幸せにしない最初の恋人カイルを演じていたし、今作でも姉妹のうち2人の人生を乱しているが、たぶんガーウィグ世界におけるシャラメは昔のハードボイルド映画に出てくる運命の女キャラの男版だ。ガーウィグ映画におけるシャラメはたぶん劇中で一番美しい生き物として撮られているが、一方でなんかこの生き物に対して欲望することは禁じられているし、これについふらっといってしまいそうな欲望を乗り越えることがヒロインの成長として描かれる。とてつもない魅力を持っていてみんなを惹きつけるが、ハードボイルドヒロインが自分の人生を生きるためには、こういう男と幸せになるという選択肢はない。『レディ・バード』のサーシャは一回失敗したが、『若草物語』のサーシャは完全にハードボイルドヒロインらしく運命の男を断った。これぞハードボイルドヒロインの誕生である。

 そういうわけで、運命の男を他の女のもとに帰してやり、出版社との駆け引きもできるジョーは最近のアメリカ映画の中では最も『カサブランカ』のリックに近い女だと思う。そしてグレタ・ガーウィグみたいな女性の監督がこういうある種の嗜好(だってシャラメなんでしょ?)を作家性として丸出しにできる作品を2本も続けて撮って、アカデミー賞にもノミネートされるようになったというのは大変いいことだと思う。

横浜市男女共同参画推進協会の広報誌に寄稿しました

 横浜市男女共同参画推進協会の広報誌『フォーラム通信』に寄稿しました。ウィキギャップのこととかを書いています。書誌情報は以下のとおりです。

北村紗衣「まだ名前のない 第4回 百科事典は社会を映す鏡」『フォーラム通信』2020夏秋号、p. 8。

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女性にとっての結婚とは~ナショナル・シアター・ライヴ『スモール・アイランド』(配信)

 ナショナル・シアター・ライヴ『スモール・アイランド』を配信で見た。現在、映画館でもやっているのだが、こういうイギリス以外の英語方言が使われているような作品は英語字幕付きで見たかったので(そのほうが勉強になるから)、自宅で配信で見た。アンドレア・レヴィの小説をヘレン・エドムンドソンが戯曲化したもので、ルーファス・ノリス演出で2019年に上演された作品である。

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 3時間にわたる作品で、話もけっこう複雑である。舞台は第二次世界大戦前後のジャマイカとイギリスだ。まずはジャマイカ出身の女性ホーテンス(リア・ハーヴィ)の話があり、ホーテンスは同郷のマイケル(C・J・ベックフォード)に恋をしていたが失恋し、イギリスに移住することになっているジャマイカ出身の元英国兵ギルバート(ガーシュウィン・ユースタシュ・ジュニア)と結婚する。ギルバートとホーテンスは夫が出征中の白人女性クイーニイ(エイズリング・ロフタス)の家に間借りするが、帰還した夫バーナード(アンドルー・ロスニー)は人種差別的でギルバートとホーテンスを嫌っている。そんな対立の中、クイーニイは出産するが、生まれた赤ん坊は白人ではなかった。実はクイーニイは少し前に兵士としてイギリスにやってきていたマイケルと恋愛しており、生まれた子供の父親はマイケルだった。

 わりとどの人物のエピソードもしっかり描かれており、プロジェクションの背景を使ったセットとかも凝っていて、かなりの大作である。帝国主義、人種差別、性差別、戦争による精神的後遺症など重いテーマを扱っているが、それぞれの人物に奥行きがあり、また笑うところもショッキングなところもたくさんあって、メリハリと見応えのある物語になっている。イギリスで大問題になったウィンドラッシュ事件(西インド諸島地域から合法的に移住してきた移民の子供たちが強制退去させられたというスキャンダル)への目配せもある。

 面白いのは、ホーテンスとクイーニイの人生がまったく単純化されない形で類似性のあるものとして描かれていることだ。ホーテンスはイギリスに支配されていたジャマイカ出身で、孤児ではあるが教師になれそうなくらいは教育のある黒人女性、ホーテンスはイギリスでもリンカーンシャの田舎出身で、両親はいるもののあまりたくさん教育を受ける機会がなかった白人女性であり、全く境遇が違う。しかしながら、2人とも充実した恋愛の結果としてではなく、生きていくために結婚する。マイケルに失恋したホーテンスはイギリスに渡るためにギルバートと結婚するし、クイーニイはロンドンで雇ってくれていたおばが亡くなり、田舎に帰らずに暮らせるようバーナードと結婚するが、満足できずにマイケルと短い恋におちる。この作品において結婚はロマンティックな恋愛とは切り離されていて、女性が移動できるようになるための手段であり、かつ双方に何らかの得となる協力関係として描かれている。この作品の中ではクイーニイが最も人種偏見の無い白人の登場人物なのだが、それでも無知のせいでホーテンスにずいぶん失礼なことを言ったり、役に立たないアドバイスをしたりしてしまっており、人種も育ちも違う女性同士がわかりあうというのはとても困難だということが示唆されている一方、全く境遇の違う女性がともに結婚を同じようなものとして見なしていることがわかるように描かれており(さらに2人とも気付いていないが両方とも結婚の外でマイケルという男を愛していた)、女性同士の差異と共通点が繊細に焦点化されている。

子役がすごくうまい~ストラトフォード・フェスティヴァル『恋の骨折り損』(配信)

 ストラトフォード・フェスティヴァル『恋の骨折り損』を配信で見た。ジョン・ケアード演出で、2015年のプロダクションらしい。

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 『恋の骨折り損』はもともとシェイクスピア劇の中ではそんなに人気がないというか、初期の作品で流行りにそってやたら凝ったセリフをつぎ込んだもので、現代のお客さんには同系列の他のロマンティックコメディほど魅力が感じられないことも多い。しかしながらこのプロダクションはツボをおさえたとても楽しい上演にしている。ジョン・ケアードらしくあまり奇をてらわない感じでしっかり面白くするプロダクションで、衣装はルネサンス風にして、音楽も上手に使っている。 

 役者陣は皆生き生きしているのだが、モス役のゲイブリエル・ロングはまだ12歳くらいらしいのに大変上手な子役でビックリした。中に大人でも入ってるのかと思うような堂々たる演技である。主要キャストのほうについては、ナバラ王(サンジェイ・タルワール)とフランス王女(ルビー・ジョイ)が2人ともメガネをかけてちょっと学問好きそうな雰囲気で、相性がよいということを衣装で示している。この2人は全体的に外交的というか、政治家として責務を背負っている感じなのだが、男性陣も女性陣も他の3人のほうがのびのびしている印象を受けた。

 このプロダクションでは女性陣は王女以外全員が非白人、男性陣はデュメイン(トマス・オラジド)以外白人の役者が演じているのだが、この人種バランスについてきわどい諷刺的なジョークが盛り込まれている。途中でビローン(マイク・シャラ)が色黒な恋人ロザライン(サラ・アフル)を褒めるところで(これはもともとの戯曲にある設定で、ロザラインは色黒で可愛いらしい)、自分の恋人で色白であるフランス王女のほうが美人だと強硬に主張するフランス王が黒は地獄の色だとかひどい人種差別・容姿差別発言をする台詞がある。そこで自身が黒人であるデュメインが「はあ?」みたいな顔でフランス王をにらんで、フランス王がくだらないことを言い張って親友の気分を害したと焦る演出がある。ここはフランス王の発言がアホだということを示しつつしっかり笑えるようにしており、全体にこういう細かい演出が行き届いているところが良い。

ロシアの現代政治~チーク・バイ・ジャウル&モスクワプーシキン劇場『尺には尺を』(配信)

 チーク・バイ・ジャウルとモスクワプーシキン劇場『尺には尺を』をシビウ国際芸術祭の配信で見た。デクラン・ドネラン演出なのだが全部ロシア語で、英語の字幕がつく。2013年の上演である。

 

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 完全に現代のロシア政治を背景にした上演である。衣装は現代だし、最後の場面はニュースで見るロシアの記者会見みたいな雰囲気だ。アンジェロー(アレクサンドル・フェクリストフ)はたぶんわざとプーチンに似せており、官僚的な仕事の処理については非常に優秀だが腐敗しまくっている。アンジェローの性的な妄執がありありと描かれており、まずは白い修道女の衣類に身を包んだイザベラが嘆願に来た際、口論がヒートアップしてイザベラに飛びかかられ、もみあったのをきっかけに性欲が芽生える。その後はイザベラが出て行った後さっきまで座った椅子に顔を近づけてにおいをかぐわ、二度目の会見ではイザベラを暴力的に襲うわ、とにかくアンジェローはものすごく性的な問題を抱えているように見える。アンジェローはおそらく自分は優秀だと信じて育ってきたが、性的なことがらや人間関係の機微などには全く無知な男で、そのせいで権力を濫用するようになってしまったように見える。

 一方、公爵ヴィンセンシオ(アレクサンドル・アルセンティエフ)も冒頭ではえらく疲労して政治にやる気を失っているみたいだし、また市民が自由になりすぎるのを嫌がったりしていて、信用できる有能な政治家には見えない。そんなヴィンセンシオだが、聖職者のふりをしてイザベラやクローディオとかかわることによって多少、政治家として成長したようで、とくに発作的に行動するクローディオに泣きつかれた時の戸惑った表情などは今までなかった経験をしているのだろうということがわかる。多少はマシになったように見えるヴィンセンシオだが、それでも最後にイザベラにアンジェローを許させようとしたり、イザベラに求婚したりするあたりは、むしろ以前よりも外交的に手際よくいろんなことを解決できるようになっただけで誠実に他人の自由を尊重するようになったというわけではないような印象を受ける。全体として問題劇を問題劇らしく、解決がはっきりしない形でそのまま提示した芝居で、とてもよく工夫されたプロダクションだと思う。