「運命の男」とハードボイルドヒロインの誕生~『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(ネタバレあり)

 『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』を見た。言わずと知れたルイーザ・メイ・オルコットの有名作の映画化なのだが、まあセンスのない日本語タイトルがついている。グレタ・ガーウィグ監督作である。

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 お話は『若草物語』に忠実でありつつ、かなり変えている…というか、みんなが疑問に思いがちなジョー(サーシャ・ローナン)の結婚について、メタフィクション的なものすごくひねったオープンなエンディングを用意している。さらに時系列を乱した編集になっており、最初はなんか「え、もうローリーふられた後なの!?」みたいなところから始まってちょっと面食らったのだが、だんだん少女時代と現在の似たような体験が併置され、それがジョーの頭の中で物語になっていくプロセスを示すためにこういう構造になっていることがわかってくる。これは脚色としては大変凝ったうまいやり方で、古典の再構成としてはお手本にしたいくらいだ。

 

 この作品は女性にはいろいろな人生があり、結婚して幸せになる者もいればそういうことが向いてない者もいる、という生き方の多様性についての物語である。『若草物語』を最大限に現代的かつフェミニズム的に解釈した物語になっている。そしてそこでちょっと凄いというか画期的なのかもしれないと思ったのは、この作品は「女性監督グレタ・ガーウィグ」の作家性がめちゃくちゃ前に出ていて、しかもそれがなんか当たり前のように受け取られている、ということだ。

 とりあえず、ガーウィグは「芸術家として挫折する」ことになんかこだわりがあるみたいで、脚本と主演を担当した『フランシス・ハ』はダンサーとして芽が出ず振付師になる女性の話だったし、この作品には芸術家になれなかった女が3人も登場する。4姉妹のうち、作家になれたのはジョーだけで、メグ(エマ・ワトソン)は女優になれず、音楽の才能があったベス(エリザ・スカンレン)は亡くなり、エイミー(フローレンス・ピュー)はフランスに行って自分に絵画の才能がないことに気付き、結婚する。実はエイミーが一番厳しい選択をしていると思われ、この作品が『若草物語』の翻案としてはエイミーを比較的厚みのある存在として描いているのは、芸術を志す人間のほとんどはああなる、つまりどこかで才能がないとわかって辞めることになるからだ。エイミーがジョーの原稿を燃やしたのは、たぶんエイミーはアメリカにいた頃から、自分よりもジョーのほうが芸術の才があることに薄々気付いていたからなんじゃないかと思う。

 ここで考えなければならないのがキャスティングである。フェミニズムの活動家でおそらくこの中では一番、アイドル的な美人女優であると思われるエマ・ワトソンが女優をあきらめるメグ役なのはけっこうきつい…というか、私はエマ・ワトソンは好きだが、たぶんサーシャ・ローナンやフローレンス・ピューに比べると容姿が美しくてもキャラが薄いというか、雰囲気が穏やかすぎて押しが弱い。一番よく知られたフェミニズム活動家であるワトソンを、最も家庭的で古風な役柄であるメグにあてたというのは、ものすごく効果的だがある意味で意地悪でもある。一方、フローレンス・ピューはどこから見ても不屈の魂を持った女で、大変尊敬できる魅力的な人物だがすごく親近感が湧くかというとそういうわけでもなく、賢く現実的なエイミーにぴったりだ。

 そして『レディ・バード』からガーウィグ映画のヒロインをつとめているのがサーシャ・ローナンである。サーシャ・ローナンはアイルランド出身の美人なのだが、古典的な美女と言えるであろうエマ・ワトソンよりも雰囲気がだいぶ不思議ちゃん的で、妖精みたいに見える。そしてこれがたぶんガーウィグ映画の大事なところ…というのは、どう見てもジョーはガーウィグ監督の代弁者であり、監督が一番、自分に近いと思っているキャラクターだ。そしてローナンはたぶんガーウィグにとても近い知的で不思議ちゃんな雰囲気を持っている女優だが、ガーウィグより少しだけチャーミングだ。

 この「自分とほぼ同じ属性だが自分よりチャーミングな役者を自分の代弁者として持ってくる」というのは、アメリカの作家性の強い男性監督がえんえんとやってきたことである。マーティン・スコセッシロバート・デ・ニーロとか最近はレオナルド・ディカプリオを使っているのはそういうことだろうし、ガーウィグが一度一緒に仕事してもうしたくないと思っているらしいスキャンダルまみれのウディ・アレンとか(最近はジェシー・アイゼンバーグを使ってて最新作はティモシー・シャラメだ)、スパイク・リーもそうである。ガーウィグによるローナンの使い方は完全にこの方向性だ。

 そしてものすごく大事になってくるのがティモシー・シャラメである。ローリー役のティモシー・シャラメは、まあ、誰が見てもうっとりするほど美青年だ。私はこの映画を見た後、あのローリーから髪の毛を乱して求愛されて断れるかを小一時間くらい真剣に考えたのだが、自分の意志の弱さでは無理だという結論に達した(現にジョーだって最後ちょっと日和っているじゃないか)。しかしながらサーシャ・ローナンは『ブルックリン』で自分の人生を歩むためドーナル・グリーソンを断るという偉業を既に達成している。ジョーみたいに自分の人生を歩むためには、美男にやすやすと惑わされないサーシャ・ローナンのような強固な意志が必要なのである。

 それで、この強い意志でとんでもなく魅力的な男を断るというのは何なのだろうか…と考えたのだが、これ、古典的なハードボイルド映画の裏返しだと思う。ハンフリー・ボガートはえげつないくらい美しい女に求愛されても、自分や相手の人生に悪い影響が及ぶと思ったら鋼鉄の意志で断れる。『マルタの鷹』のスペードはオショーネシー(メアリ・アスター)を愛しながら警察に突き出したし、『カサブランカ』のリックは愛してるイルザ(イングリット・バーグマン)を夫のもとに返した。ハードボイルドヒーローには自分の道があるので、美女とベタベタして暮らしたり、穏健な家庭生活をしたりする暇はない。ティモシー・シャラメは『レディ・バード』でもヒロインのサーシャ・ローナンを幸せにしない最初の恋人カイルを演じていたし、今作でも姉妹のうち2人の人生を乱しているが、たぶんガーウィグ世界におけるシャラメは昔のハードボイルド映画に出てくる運命の女キャラの男版だ。ガーウィグ映画におけるシャラメはたぶん劇中で一番美しい生き物として撮られているが、一方でなんかこの生き物に対して欲望することは禁じられているし、これについふらっといってしまいそうな欲望を乗り越えることがヒロインの成長として描かれる。とてつもない魅力を持っていてみんなを惹きつけるが、ハードボイルドヒロインが自分の人生を生きるためには、こういう男と幸せになるという選択肢はない。『レディ・バード』のサーシャは一回失敗したが、『若草物語』のサーシャは完全にハードボイルドヒロインらしく運命の男を断った。これぞハードボイルドヒロインの誕生である。

 そういうわけで、運命の男を他の女のもとに帰してやり、出版社との駆け引きもできるジョーは最近のアメリカ映画の中では最も『カサブランカ』のリックに近い女だと思う。そしてグレタ・ガーウィグみたいな女性の監督がこういうある種の嗜好(だってシャラメなんでしょ?)を作家性として丸出しにできる作品を2本も続けて撮って、アカデミー賞にもノミネートされるようになったというのは大変いいことだと思う。