トイレでケツふいてる人まで美しく撮るのに、言葉は軽視されてる〜『ノクターナル・アニマルズ』(ネタバレ多数)

 トム・フォード監督『ノクターナル・アニマルズ』を見てきた。

 入れ子構造になった話で、ヒロインであるスーザン(エイミー・アダムズ)のところに別れた夫エドワード(ジェイク・ジレンホール)から小説が送られてくるところから始まる。小説を読んでいる現在のスーザン、エドワードと結婚していた頃のスーザン、小説の話という三つの物語が展開する。枠に入っている小説の主人公トニーはエドワード役もつとめているジレンホールが演じている。

 全体的にとにかくどの場面も絵のように綺麗である。そこはファッションデザイナーでもあるトム・フォードの映画で、スーザンが住むロサンゼルスのお屋敷や経営しているギャラリーのようないかにもフォードっぽい空間はもちろん、映画中映画に出てくるテキサスのド田舎の野外トイレでケツふいてる人から惨殺死体まで全部美しい。あまりにも綺麗なのでちょっと暴力による悲劇を美化しすぎとも思えるのだが、まあでもフォードはたぶん台所の生ゴミを撮っても全部綺麗になっちゃうような監督なのでしょうがないのだろうと思う。正直、トイレでケツふいてる人をあんだけちゃんと絵として撮れるのはビックリした。

 しかしながらあまりにもヴィジュアルにこだわりすぎていて内容は全然面白くないと思った。とりあえず、圧倒的に言葉が軽視されていると思う…というか、小説が主題の映画にしてはちょっと読む行為や書く行為を軽く見過ぎている、むしろバカにしているような気すらした。一番私が良くないと思ったのは、いったいエドワードが書いている小説にはどういういいところがあるのか全然わからないということである。この映画ではほとんどエドワードが書いた小説の言葉を引用しておらず、「読み上げる→映像に入る」みたいな移行のショットもなしにスーザンの脳内に想像された小説の内容がいきなり映像化される。これは非常にズルいというか小説を映画に出すやり方としてちょっと卑怯だと思う。

 さらにこの映画中映画は、ビジュアルと演技は素晴らしいのだが、内容はおそらく全然陳腐…というか、少なくともあらすじから想像する内容では単なるB級サスペンスだ。テキサスの田舎者は怖くてサイコパスで理由もなく人を襲ってくる!って、それ単なる偏見だし、使い古されたネタである(監督本人がテキサス育ちらしいので地元が嫌いなのかもしれないが)。そりゃあ物凄く優れた作家が書いたら描写の力で面白くなるかもしれないし、フォードみたいにビジュアルにこだわる監督が映像として撮ってるから見られるものになっているのだが、小説がどういう言葉で語られているかに関する描写が極端に少ないので、エドワードがそういう陳腐なストーリーにいろんなトリックや非凡や描写を組み込んで面白くできるタイプの作家であるようには見えない。私の想像だが、おそらくエドワードの小説の話じたいは全然たいしたことない内容なのではないかと思う。だからあのラストの解釈は、エドワードはへぼ小説家で新しい小説も実は相変わらずひどい小説であり、精神が弱っているスーザンが自分に引きつけて読んだから素晴らしく見えただけで、エドワードが現れなかったのは、一見褒めてるっぽい態度のスーザンから遠回しにボロクソに言われるかもと怖くなったからだという解釈はどうだろうか(!!)。

 原作小説を読んだらもうちょっと印象が違うのかもしれないが、少なくとも私が映画から受けた印象はヘボ小説に必要以上に感動してしまった精神が弱ってる女性の映画だというものだった。ベクデル・テストはやすやすとパスするし(スーザンとアシスタントの赤ちゃんに関する会話など)、ローラ・リニー演じる母親とスーザンの会話とかは非常によく撮られているし、演技やヴィジュアルの点では悪くないところもある。あと、冒頭の大女たちのヌードショーシーンは凄く良かった(その後でショーガールが展示品みたいに扱われるのはいただけないけど)。とはいえヴィジュアルばっかりで中身の無い映画で、全然面白くはなかったと思う。最近公開され、やはり文学が主題の『パターソン』が読むことの身体性などを丁寧に表現しつつ言葉の楽しさを描いていたのを思うと、それに比べれば全然ダメなスカスカの映画だったと思う。