音楽が面白い~Kawai Project 番外編『リア王』リーディング公演

 Kawai Project 番外編『リア王』リーディング公演を見てきた。私の指導教員である河合祥一郎先生の新訳・演出によるもので、感染対策もあって一回の公演に15人しか入れないという非常に少人数向けの上演である。

www.kawaiproject.com

 『リア王』をそのままやると3時間くらいかかるのだが、これはなんと96分に縮めているものの、話はきちんと通っているし、変なカットもなく、役者陣の演技も良好で(やはりフェイスシールド付きで距離もとるということだとやりにくいのかな…と思うところも少しあったが)、キャラクターの違いなどもそれぞれわかるようになっている。リーディングとはいえある程度動きはあり、最低限の照明や音楽もあるので退屈しない(私はリーディング公演が大変苦手で、いつも起きているだけで一苦労なのだが、これはちゃんと最後まで起きて楽しめた)。とくにスポットライトの使い方などはわりと面白く、フランス王(西村荘悟)が突然コーディーリア(山﨑薫)が廃嫡されたと知って驚き、いろいろな疑念を語る序盤の台詞のところではスポットがフランス王だけに当たるようになっていて、このあたりは驚きやコーディーリアを好ましく思う気持ちがわかりやすく、良い照明の使い方だと思った。あと、生演奏の音楽が大変面白く、すぐそばで見たことのないような変わった楽器を使ってそれぞれの場面を盛り上げる音を出しており、これも非常に良かった。

せっかくアンドルー・スコットが笑わせてくれるんだから、みんなの笑い声が聞きたい~Three Kings(オールド・ヴィクよりライヴ配信)

 オールド・ヴィクがライヴ配信しているThree Kingsを見た。アンドルー・スコットのためにスティーヴン・ベレスフォードが書き下ろした一人芝居で、マシュー・ウォーチャスが演出している。撮影した映像をアーカイヴにして配信するのではなく、最初の挨拶とか注意事項以外は全てスコットの演技をカメラで撮ってネット中継するという形式である。上演時間は1時間くらいだ。

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 アイルランド人の男性であるパトリックと、生前ほとんど会うことのなかった父親(同じパトリックという名前らしい)との関係に関する作品である。タイトルのThree Kingsというのは、8歳になったパトリックのところに初めて会いに来た父親が教えた3つのコインを使ったパズルゲームである。このゲームにはたぶんいろいろな意味がある。まずは父が子に課した試練である(この父親はまあ全く頼りにならない父親で、パトリックに対してこのパズルが解けたらまた会いに来るとかなんとかいう口約束をする)。一方でパトリックの父親というのはほぼ詐欺師みたいな生活をしていた人であることがわかってくるので、人の注意を引くためのトリックであるこのゲームはその怪しい生き様を象徴する。さらにThree Kingsというのは、聖書に出てくる東方の三博士の別名であり、つまり幼子イエスの誕生を祝って贈り物をもってきた人々を指すので、たぶん父から子への贈り物という意味もある。パトリックは自分の父親がひどい男だということは認識しているのだが、自分にも父親に似たところがあるのはわかっており、さらに終盤で異母弟であるパディ(パトリックの愛称で、つまりパトリックの父親は息子2人に自分と同じ名前をつけた)にも別の点で自分に似たところがあると知る。最後にパトリックが自分たちの欠点について「父」(これは実父でもあり、神でもある)に祈る場面があり、全体的にキリスト教的な象徴に満ちた芝居だと言える。

 もともとライヴ配信を想定して作ったというだけあり、撮影はかなり凝ったものである。Three Kingsというタイトルにあうよう、最初の場面はひとつのカメラがスコットをとらえ、次の場面は2つのカメラ、その次の場面は3つのカメラになって、最後のお祈りの場面はまたカメラがひとつに戻る。これはちょっとキリスト教の三位一体を連想させるところもあり(たぶんパトリックという3人の男が本質的には似ていることを撮り方で示唆しているんだろう)、またスコットの細かい表情や動作をいろいろな角度からとらえられるので、とても効果的な試みだ。ちゃんと英語字幕も出る。

 スコットがモノローグが得意なのは既にSea Wallでよくわかっていることなのだが、この作品のスコットの演技も大変良かった。ひとりでいろんな役をやり、感情的な悲しい場面から面白おかしいところまで、非常に広い表現をしている。かなり重い話なのに笑うところもけっこうある。お父さんが"Spanish Count"のフリをして別の女性に近づいていたという話を聞くくだりでパトリックが「え、Spanish Countですか?」みたいに聞き返すところはかなり笑った(Count「伯爵」は英語でCunt「マンコ野郎」と発音が似ているので、まるでオヤジさんがスペイン人のスケベ野郎として女に近づいたみたいな響きで笑える)。またアイルランドネタもあり、パトリックのオヤジさんが知り合いのピートをけなすのに「イギリス人ときたら、シェイクスピアからパーマストンを経てピートに劣化してる」とかいうそれはそれはひどい発言をするところの「パーマストン」は、首相もつとめた有名な政治家である一方、アイルランドの領地で情け容赦のない不在地主ぶりを発揮していたパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルのことで、これも笑うところだと思う。ただ、悲しいのはZoom観劇だと周りのお客さんの笑い声が聞こえないことで、これはとても寂しい。せっかくスコットが笑わせてくれるんだから、みんなの笑い声を聞きたい。

 

プロジェクションを多用した舞台~メトロポリタンオペラ『ルル』(配信)

 メトロポリタンオペラでの配信で『ルル』を見た。ウィリアム・ケントリッジ演出で、2015年に上演されたものである。

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  以前に配信で見たケントリッジの『魔笛』同様、とにかくプロジェクションを多用した美術がすごい。いろんな活字とかスローガン、ロールシャッハテストやらなんやらが背景にコラージュみたいに飛び交っており、舞台となっている時代の不安定さを印象づける美術だ。たぶんこれはヒロインであるルル(マルリス・ペーターゼン)が移り変わる時代や人々の心に翻弄される存在であることを示唆している。全体的にかなりルルが可哀想な女性に見えるというか、時代の犠牲者のように描かれていると思った。

 ただ、これは完全に好みの問題なのだが、私はどうもアルバン・ベルクの音楽がかなり苦手らしい。全体的に、とてもかっちりしているのに不穏な感じがして非常に疲れる。とくに、わざとものが割れるみたいな音色で挿入されるピアノの音がどうも居心地が悪い。正直、これならストレートプレイのほうが好きだなと思った。

早すぎる「中年の危機」…『マティアス&マキシム』(試写、ネタバレ注意)

 グザヴィエ・ドランの新作『マティアス&マキシム』をオンライン試写で見た。

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 数日中にオーストラリアに旅立つことになっているマキシム(グザヴィエ・ドラン)は長年の友人であるマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)を含めた数人で田舎の別荘に行く。そこでひょんなことから別荘を持っているリヴェット(ピア=リュック・フランク)の妹であるエリカ(カミーユ・フェルトン)の自主映画に出演することになるが、そこで2人がキスする場面があり、そのせいで2人の関係に変化が生じる。一方、マキシムは病気の母親との関係が最悪で…

 全体的に、母親との関係とかややこしい恋愛、ある種の解放とトラブルをもたらすものとしての山荘での休暇、人間関係が露わになる場所としてのパーティなど、ドラン的なモチーフをたくさん含んでいる。作風としては前の前の作品である『たかが世界の終わり』や前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』にかなり似ており、いろんなものを曖昧にしたままゆっくり話が進むのだが、描写の積み重ね方は以前の作品に比べてけっこうこなれていると思う。そもそもテーマが子どもの頃から友人だった2人の関係の変化で、ある意味ではまだ自分たちは中年だと思っていなかった男たちが早すぎる中年の危機に直面する作品であり、成熟がテーマだと言ってよいかもしれない。また、ドランの作品としては労働とか生活基盤の構築が大きなテーマになっており、マキシムは推薦状が必要で困っているし、マティアスが仕事で接待をする様子がけっこう長い時間を使って描かれている。介護やら仕事やら移住やらで恋愛どころではないはずなのに、さらに恋愛絡みの人間関係にも直面せねばならなくなるというシビアな大人の映画である。

 そういうわけで大人の生活を多角的に描いた成熟した映画だとは思うのだが、面白いかというとちょっとわからない…というか、マキシムの移住というタイムリミットがあるのにわりと進み方がゆっくりで、テンポ感があまりなく、ちょっとエピソードごとの時間配分に難があるような気がする。終盤はだいぶよくなるのだが、とくに中盤あたり、もうちょっとスピーディな編集と展開で見せたほうがよいような気がする。ドランがパーティとか家族の集まりを撮るのが得意なのはわかるのだが、ちょっと手癖で得意分野にこだわりすぎじゃないかと思うところもあった。

 あと、全体的に内面化されたホモフォビアや男らしさへのこだわりに対する批判を含んだ作品ではあるのだが、こういう作品にしては女性であるエリカの描き方があまりにも薄っぺらいように思った。女性陣については、困った母親というのはドランの作品に必ず出てくるテーマなのでそれはいいし、マキシムのおばさんとかはわりといいキャラだと思うのだが、エリカが絵に描いたようなダメなアーティスト志望の若い女性で、ロクに説明もせず刺激的な内容の自主映画にマティアスとマキシムを出そうとしたり、意味のよくわからないコンセプト説明で2人を煙に巻いたりするあたり、あまりにも才能がなさそうで型にはまりすぎていると思った。

 

映画における音の重要性をわかりやすく説明したドキュメンタリー~『ようこそ映画音響の世界へ』

 『ようこそ映画音響の世界へ』を見た。映画における音響の重要性に関するドキュメンタリー映画である。

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 トーキーになったばかりの時期から最近まで、映画の音響技術の発達を大変わかりやすく描いたもので、音響がどんなに映画に大切かということがよく理解できるようになっている。映画の音はだいたい何カテゴリに分けてどういう順番で作るとかいうような実践的なことも解説している。『スター誕生』を撮った時にバーブラ・ストライサンドがドルビーステレオにこだわっていたこととか(『スター・ウォーズ』より前に『スター誕生』がやっていたらしい)、後で足音などを別のアーティストが入れるフォーリーサウンド(Foley)という方式はジャック・ドノヴァン・フォーリーという人の名前から来ているとか、いろいろ面白い話がたくさん出てくる。女性の音響技術者が監督していることもあってジェンダーの観点もあり、大変行き届いた作品だ。

感情をため込んでしまう男たちへの救い~『幸せへのまわり道』

 マリエル・ヘラー監督『幸せへのまわり道』を見てきた。ひどくセンスのない日本語タイトルだが、原題はA Beautiful Day in the Neighborhoodで、アメリカの有名な教育番組司会者フレッド・ロジャースの事績に取材した作品である。

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 主人公はフレッド・ロジャース(トム・ハンクス)ではなく、フレッドを取材することになったジャーナリストのロイド(マシュー・リス)である。『エスクァイア』で働くロイドは優秀な記者だが人間関係に問題を抱えており、とくに病気の母親を置いて出て行った父親ジェリー(クリス・クーパー)との関係は最悪だし、出産したばかりの妻アンドレア(スーザン・ケレチ・ワトソン)ともイマイチすれ違っているところがある。調査報道専門のロイドはボスに言われて渋々フレッドのところに取材に行くが、そこで穏やかで独特の雰囲気を持っているフレッドに興味を抱くようになる。

 とにかくフレッドの雰囲気が超独特で、ふつうなら他人に嫌がられそうなことをなぜかあまり失礼にならない感じで聞いてきて、話の過程で相手の心を癒やしたり、人生のヒントを提供したりしてくれる不思議な人物として描かれている。もともとは牧師だったらしいのだが、カウンセリングの才能があり、自分の感情を露わにしたがらないロイドにいろんなことを聞いて、最初はひどく抵抗したロイドがだんだんフレッドと話したいと思うようになる。新約聖書に出てくるイエスを穏やかにしたような人柄なのだが(新約聖書のイエスは会った人に対してやたらと奇跡を起こして精神的に解放してあげるのが得意なのだが、一方でたまにキレて神殿を破壊したりするのであまり丸い人柄ではない)、一方で最後にピアノを弾くくだりなどではフレッドも人間だということがわかるようになっている。

 この作品でポイントになるのは、ロイドが自分の感情と向き合いたがらない、いわゆる「男は黙って」タイプであるということだ。この映画は男性ジェンダー問題を描いたものであり、ロイドはおそらく男性というのはあまり感情を露わにして泣いたり、トラブルを人に打ち明けたりしないものだという禁欲的な男子文化を内面化している。そのせいでロイドはかえって感情を全く制御しきれなくなり、姉の結婚式で父親をぶん殴るとかいうとんでもない暴力行為をすることになる。女たちのほうはこの点、だいぶマシだ。ロイドの妻アンドレアは最後でわかるように実は積極的にフレッドに相談をしていたらしいし、夫と父との和解にも協力的だ。ロイドの姉ロレイン(タミー・ブランチャード)も父と和解しようと努力しているし、ジェリーの現在のガールフレンドであるドロシー(ウェンディ・マッケナ)も開けた人である。ところが男であるロイドはさっぱり自分の感情に対処できていないし、父のジェリーもロイドよりは多少自分に向き合っているがそれでも秘密主義的で、ドロシーにごく最近まで疎遠になった息子と娘がいることを打ち明けていなかったらしい。この映画では、秘密とか感情への対処について男女でかなりの違いがあり、男子文化的な感情対処法が人生の問題を余計悪化させることとして描かれている。ドロシーが「ジェリーには子どものことをもっと早く話してほしかった」とロイドに語っているのはとても重要で、本来であればロイドやジェリーはもっと早くからいろんな人に抱えていることがらを打ち明けて、フラストレーションをため込まないようにすべきだったである。

 こう考えると、初対面の人にでもけっこう突っ込んだことを聞いてしまい、一方でなぜかそれがそこまで不愉快に感じられないフレッドのカウンセリング技術というのは必要な救いであり、とても優れているということがわかる。ロイドのような人にはなんとかして感情を打ち明けさせることが必要なのだが、たいていの人は相手をそちらに誘導する技術がないので突っ込んだ質問なんかできないし、もしそういうことを聞いたら失礼だと思われて絶交されるだけだ。ところがフレッドは長年の経験のおかげで(またおそらくは自分にもそういうところが昔あったのを自覚しているせいで)、こういうため込みやすい男たちの心に切り込む技術に非常に長けている。今まではイラついてばかりだったロイドがフレッドとごはんを食べながら涙を流してしまう場面は、ロイドがフレッドに導かれて自分の感情と向き合えるようになったことを示す重要な描写だ。この映画は男性も自分の感情を露わにしていいし、それが必要なんだということを巧みに描いている。

 こういう非常にストレートに感情の問題に切り込んでいく作品である一方、構成はけっこう凝っているというか、やや実験的なところがある。フレッドがやっている番組のセットとなるミニチュアの街と現実が交錯し、ロイドの解放までの過程がまるでフレッドの番組みたいな構成で描かれているのである。これはおそらく、フレッドがやっている番組というのは、フレッドがふだんから出会った人々に対してやっている相手の心を解放するプロセスの一部なのだということを示していると思う。番組が音楽を組み込んだ教育番組であるため、映画全体もちょっとセミミュージカル風な作りになっており、フレッドだけではなくジェリーも歌う。クリス・クーパーがけっこう歌がうまくて、ジェリーが歌うところはなかなか良かった。

大変良い上演だが、相変わらず映像が…ブラックフライアーズ劇場『オセロー』(配信)

 ブラックフライアーズ劇場、イーサン・マクスウィーニー演出『オセロー』を見た。有料配信で、数日前に上演されたものである。

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 ルネサンス風の衣装にシンプルなセットを使った正攻法のビジュアルだが、この上演の特徴はキャスティングである。オセロー役は女優のジェシカ・D・ウィリアムズで、このオセローはものすごくカッコいいのだが、女優が演じているということで男らしさをめぐる芝居であるこの作品の特質がよく出ている。女優が男らしさの鑑であるオセローを実に「男らしく」演じることで、男らしさというものが文化的に作られたものであり、ある意味では現実から乖離した理想にこの芝居の登場人物が振り回されているということが見えてくるようになっている。

 さらにこのプロダクションは非白人のキャストが非常に多く、オセローどころかキャシオーも黒人男性のブランドン・カーターが演じているし、エミリア(コンスタンス・スウェイン)もビアンカ(サラ・スズキ)も非白人である。キャシオーが黒人男性だというのはこの芝居の中では大きく、イアーゴーの人種差別的な怖れが際立つ一方、オセローがキャシオーに寄せる嫉妬心は内面化された人種差別の直接の表出というよりは、同じく白人社会で成功しているキャシオーに対する対抗心や、なんともいえない自分の中の不安に起因するものとして描かれるようになっている。劇評でも、オセローの嫉妬心は肌の色よりも心に起因するものだと書かれているが、ジェームズ・マカヴォイ主演の『シラノ・ド・ベルジュラック』といい、最近はそういうふうに男性の不安を焦点化するような演出が流行りなのかもしれない。

 役者陣は全員素晴らしく、オセローはもちろん、颯爽としたキャシオー、若くて友達みたいなエミリア、面白くてカリスマのあるイアーゴー(ジョン・ハレル)、真面目なデズデモーナ(ミア・ワーグラフト)、とにかく笑えるロドリーゴ(ゾーイ・スピアズ)など、アンサンブルがとてもよく効いている。

 ただ、相変わらず映像のクオリティは大変よろしくない。引きで撮った時の画質が悪いし、音もイマイチである。これは本当になんとかしてほしいものだ。