まったく好みでないタイプの演出~東京芸術劇場『リア王』

 東京芸術劇場でショーン・ホームズ演出『リア王』を見てきた。

 事務機器とかウォーターサーバとかが置かれた箱みたいな舞台で、おおむね現代的な衣装である。序盤は白い紙みたいな壁があり、そこにいろいろOHCのようなものを使って地図や文書を映したり、文字を書いたり、怒った人が退場する時にはそこを破って出て行ったりする。途中からこの壁がなくなる。

 大変私が好みでないタイプの舞台である。まず、日本語で書かれていない(席が後ろだったのもあってつぶれていて見づらかったのだがたぶん英語)手紙を、日本語でシェイクスピアをやる時にOHCで後ろに映すという演出は要らないと思う。白い紙の壁に場所の設定を書くところもあり、そこでも人名をアルファベットで書いているのも気になった。しゃべっている言語は日本語なのに、書記言語としてはおそらく観客のほとんどが理解しないであろう英語を使って、それで舞台上では何の問題もなく通じているようなフリをする…というのは私にはちょっと西洋中心的、英語中心的に思える。そもそも私は演劇で「異なる言語を使用しているのにあたかも通じているように振る舞っている」演出が非常に嫌いで、これは言語というのは同じ言語であってもそもそも通じないものだと思うので、違う言語なのに通じ合ってるみたいなフリして芝居が進むのはなんだか偽善的な感じがすると思うからである。これは全く個人的な感覚なのでそういうのが好きな人はいると思うのだが、私は非常に苦手だ。

 それから、初っ端からコーディリア(上白石萌歌)が白い壁に投影したブリテン諸島に地図に対して、南側の自分用の分け前と思われるところに大きく×印をつけるのだが、それは論理がなんかおかしくないか…と思った。これだとコーディリアはもともとはなから領地なんか欲しくないからリア王にそっけない対応をしたように見えるのだが、それは『リア王』の始まり方としてはなんかヘンでは…という気がした。これは正統な相続権をもっていて領地をもらうべき王女に対して父親がたいした理由もないのに不当に怒り、領地を与えないのがおかしかった、という始まり方の芝居であって、領地を欲しがっていない娘が父親をわざと挑発して家出した、みたいな話ではないように思う。この×印の演出だと、リア王は王として、また父として生前贈与を行う意志があるのに、コーディリアからそもそも「土地なんかいらん」と言われたことになってしまうので、それは怒る理由になる…というか、怒ったのが不当だとまでは言えなくなってしまうのではないかと思った。

 また、照明を点滅させることでリア王の気持ちを示すみたいなところがいくつかあるのだが、単純に生理的に目がチカチカして好きではないと思った。まあやりたいことはわかるのだが、これは頭痛などがある人には非常に嫌がられる演出である。とくに最後の場面は照明がひどく点滅するのに舞台上では死んだ人も立ったままだったりして、生々しく人の死を見せるみたいなところが全然なく、なんだか気取った演出だな…と思った。

 あと、衣装にあまり一貫性を感じなかった。ほとんどの人は現代的な服装なのに、衛兵みたいな人たちはちょっと古風な服を着ているように思う。また、三姉妹が全員、似たような型のダサピンクみたいな服を着ているのは単純にオシャレじゃないし、とくにキャラクターの性格の表現とかに貢献しているわけでもないのでなんだかなぁと思って見ていた。イギリスの貴族女性が着ているみたいな帽子と服のコーディネートだとは思うのだが、日本では単なるダサピンクに見えてしまう気がする。ゴネリルの手紙は封筒までダサピンクなのはなんじゃいなと思った。

かなり苦手なタイプの芝居~『つかの間の道』

 ムニ『つかの間の道』を招待で見てきた。60分くらいの短編なのだが、かなり苦手なタイプの芝居だった。私はこういう、人間同士がお互いを見てしゃべらず、話している内容と動作がほぼ全く一致していないようなタイプの舞台が非常に苦手である。

イエローヘルメッツ『リチャード二世』リーディング(配信)

 イエローヘルメッツ『リチャード二世』リーディングを配信で見た。シンプルなリーディング公演だが、たまにイエローヘルメッツっぽい味付けがある。ただ、これもイエローヘルメッツの特徴で全体的に衣装も背景も黒っぽいため、配信だとけっこう見づらいと思えるところもある。

視覚障害の使い方に若干引っかかりが…『ビニールハウス』(試写、ネタバレあり)

 『ビニールハウス』を試写で見た。

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 訪問介護士のイ・ムンジョン(キム・ソヒョン)は、少年院に入っている息子ジョンウ(キム・ゴン)と一緒にまともな家で暮らすことを夢見つつ、ビニールハウスに住んでいる。ところがムンジョンは介護中のちょっとした事故で、被害妄想をつのらせていた認知症患者のファオク(シン・ヨンスク)を死なせてしまう。ムンジョンは身を守るため、入院していた自分の母(ウォン・ミウォン)をファオクに仕立て上げ、ファオクの夫である視覚障害を抱えたテガン(ヤン・ジェソン)を欺こうとするが…

 いくらなんでも「半地下はまだマシ」というキャッチコピーは『パラサイト 半地下の家族』を意識しすぎだろう…と思うのだが、『パラサイト』同様、韓国の住宅問題と格差を扱った作品である。ただ『パラサイト』と比べてブラックユーモアで笑うところがほとんどない。全編、真面目で深刻なサスペンスである。

 スリリングな展開と社会問題の捉え方、役者陣の演技はとても良いと思ったのだが、ちょっと引っかかったのが視覚障害をプロットデバイスとして使うやり方である。この点はちょっと『落下の解剖学』や『』とも似ていると思うのだが、視覚障害を抱えた人を替え玉で騙す…みたいな展開は、いくら当事者のムンジョンが良心の呵責で悩んでいるところも描かれているとはいえ、ちょっと引っかかった。個人的な好みだが、視覚障害をサスペンスのネタとしてのみ使うのはどうも障害じたいを軽視している気がしてあまり好きになれないところがある。

 

科学者の見る小さな世界と科学の大きな影響~『オッペンハイマー』(試写、ネタバレあり)

 クリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』を見てきた。

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 物理学者で原爆開発の立役者のひとりであるJ・ロバート・オッペンハイマーキリアン・マーフィ)の伝記映画だが、全人生はカバーしていない。オッペンハイマーが若手研究者として頭角を現し始めたくらいから始まり、ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)が商務長官就任を却下されるところまでで終わる。この終わりはいったいオッペンハイマーの人生にどういう関係が…と思うかもしれないのだが、実際に見ると極めてきれいに着地している(ここも面白いのだが、あんまりネタバレすると良くないのでこのレビューでは割愛する)。

 まず、序盤でけっこういやな気持ちになることを覚悟したほうがいい…というか、オッペンハイマーがロスアラモスにマンハッタン計画のための科学者村を作り、原爆の実験を成功させるまでが、まるでむちゃくちゃよくできたプロジェクトXみたいな感じで、非常にわくわくする開発ともの作りのプロセスとして描かれている。このわくわくプロセスが原爆開発なのだから、見ているほうは複雑だ。ただ、この楽しい開発描写が終盤反転するというのがこの3時間の大作の構成で、一筋縄ではいかない作りになっている。

 序盤はまずロスアラモスで働く研究者集めがひとつめの山である。オッペンハイマーはかなり通常のソーシャルスキルが低い典型的学者タイプなのだが、それでもここまでに培った研究者ネットワークがあり、たくさん優秀な科学者がオッペンハイマーの話に興味を持って集まってくる。これは科学に限らず研究の世界ではだいたいそうだと思うのだが、研究者のソーシャルスキルというのはどれだけ研究ができるか、そして自分の研究のことを他人にうまく説明できるかに左右されるので、たぶん政治家とか企業家とかのソーシャルスキルとは全く違うからである。オッペンハイマーはこの研究能力、研究プレゼン能力、また研究チームのロジスティックスを管理する能力は非常に高いので、科学者がみんなオッペンハイマーを信用して集まってくるわけである(なお、オッペンハイマーは研究コミュニティから出て政治家なんかに会うと途端に交渉下手になる)。

 この七人の侍的リクルーティングプロセスの後でロスアラモスに科学者村ができるのだが、この村はオッペンハイマーを村長として運営される科学者だけの隔絶されたコミュニティである。もちろんアメリカ軍から官僚的な横やりが入ってきてそれに科学者がイラついたりはするのだが、軍人がいないところでは科学者たちが自分の思うとおりに研究をしており、平時の日常ではあり得ないようなある種の人工的な科学のワンダーランドのように描かれている。オッペンハイマーをはじめとするユダヤ系や左派の科学者たちは当然ヒトラーを嫌っているので、新しい科学でナチスと戦うんだという固い意志を持っているし、全員すごく優秀だ。中には原爆の破壊力と影響力について不安を訴え、仕事やめたいと言い始める科学者もいたりして不穏な気配はあるし、終盤でナチスが負けてからは科学者の間でも原爆は使うべきではないというような意見を述べる人が増えてくるのだが、それでも最初の核実験であるトリニティ実験までは、見ている人を強制的に開発プロセスに巻き込むみたいな熱気があり、映画としてはすごく面白いと思って見ながらも、これが日本に落ちるのか…と思うと大変イヤな気持ちになるし、こんなんを楽しく見ていいのか…という気になってくる。

 しかしながらこのわくわくする開発が終盤で全く違うものに見えてくる。原爆投下の後、オッペンハイマーは良心の呵責にかられて悲惨な想像に苛まれるようになる。実際に原爆が広島や長崎に投下された時やその後のことが映像で示されることはないのだが、科学者たちが記録映像を見てショックを受けたり、オッペンハイマーが原爆の父としての名声に居心地悪さを感じるようになったりする様子を通して間接的に核の恐怖が描かれる。オッペンハイマーにとっては、ロスアラモスでやっていたワクワク開発プロセスが人類に取り返しのつかない惨禍をもたらしてしまったということになり、あの充実していたはずの研究の経験は何だったのか…ということになるわけである。これはほぼ観客も同じようなプロセスを体験することになり、開発プロセスを面白いと思って見ていたのが非常に居心地悪くなるような作りになっている。

 

 そこで問題なのは日本が受けた被害に関する描写が極めて間接的であることだ。スパイク・リーはこの映画を褒めつつ日本の被害描写がないことを軽く批判している。スパイク・リー自身が、途中まで良い意図で頑張ってやったのにどうもすっきりしない終わり方になってしまった…みたいな展開を得意としている監督だと思うので、この意見は大変リーらしいと思うし、この意見は正しいと思う…のだが、一方で直接描写がないことにはおそらく美的な一貫性という点で理由はある。というのも、この映画のオッペンハイマーは非常に小さな世界に生きている人間であり、本作はオッペンハイマーの心の中で起こっていることとその限界に関する物語だからだ。

 この映画のオッペンハイマーは、視野の狭い人ではまったくない。若い頃から組合活動や左翼思想などにも興味があったが、あまり党派的な活動には馴染めないタイプだ。いろいろな外国語を学び、サンスクリットの文学を原語でたしなむ教養人だし、若い頃は大陸ヨーロッパ各地で留学もしている。しかしながらオッペンハイマーはこういうところで得た知見を全て自分の手が届く小さい世界に引きつけて考えてしまうようなところがある。おそらくオッペンハイマーが最初は原爆開発に尽力し、原爆使用後に良心の呵責を感じるようになったのは、少なくとも映画ではこの性格に関係している。オッペンハイマーが見ているのはそれこそ原子みたいな小さいもの同士が動いている世界と、星が広がる大きな宇宙で、その中間のいろんな人間がかかわりあう不確定な社会のようなものに対するヴィジョンがあまりない。このせいでやたらと女性関係でトラブルを起こすし、政治活動へのかかわり方も大変に不器用である。

 そういう意味では、ロスアラモスはオッペンハイマーの精神世界の象徴だ。巨大な荒野が広がる自然の世界だが、オッペンハイマーにとっては弟と一緒に買った牧場がそばにあり、実家みたいなところである。そこにほとんどゼロから周辺と隔絶された科学のワンダーランドを作る。ここでオッペンハイマーは広大な宇宙を自分の家に引き寄せて、そこに人工的な自分の小宇宙を作るというような行動をとっていると思う。

 この小宇宙は居心地の良いところだったが、オッペンハイマーは結局、この守られた小宇宙から出て社会とかかわらざるを得なくなる(これはある意味で、バービーランドから現実世界に主人公たちが出て行く『バービー』と似ていると言える)。オッペンハイマーは原爆投下以降、ロスアラモスの周りの人が閃光のもとで焼けただれていくような幻影に悩まされるようになるのだが、たぶん日本の惨状を想像するのではなく、目の前の人たちが出てくる夢を見るのがポイントで、オッペンハイマーは社会で起こっていることを自分の至近に引きつけて想像しないとあまり把握できない。これがオッペンハイマーの想像力の限界なのである。オッペンハイマーが作った小さな世界はコントロールの効いた整った空間のように見えたが、一歩そこを出ると、そこで作られた科学の成果が想像もできないような大きな影響を社会に及ぼしており、オッペンハイマーはそれを正確な形で予見することができなかったし、影響が出た後も自分に引きつけて考えないとうまく理解できない。そしてオッペンハイマーはこうした白昼夢の後、ロスアラモスを離れざるを得なくなるわけだが、外の世界はそんなにオッペンハイマーに優しくなかった。

 

 そういう意味ではこの映画の描写には非常に一貫性はある。ただ、映画として一貫性はあるとは言え、これを広島や長崎にお住まいの方や、親戚に被爆で苦しんだ方がいるような観客が見た場合はもう中盤まででイヤな気持ちになるかもしれないし、後半もぬるいと思う可能性はあると思う。たぶんスパイク・リーは美的な一貫性を犠牲にしてでも日本の被害を見せたほうがよかったと思っているのはないかと思うし、私もそうかもという気はする。

 なお、この映画は技術的には大変高度なことをやっている映画である。全体的に音が非常に工夫されており、場面にあるはずの音をなくしてオッペンハイマーが感じていることを強調するなど、音の表現が巧みだ。不穏な音楽や、トリニティ実験で音だけ遅れて聞こえてくるくだりなども大変よい。また、メイクがけっこうすごく、老けメイクをはじめとする同じ役者で違う年齢の姿を表現する際の工夫はもちろん、「徹夜明けの研究者」の顔の再現度がえらいリアルである。しかも人によって全く寝てなそうな奴(組み立てとか準備の部門の人はたぶん休まず作業してた)と多少は寝てそうな奴(オッペンハイマーなど理論部門は、疲れてはいるが大事な実験にそなえて細切れでも休養をとってそうな顔をしている)の間に微妙に顔色の違いがあり、役者の演技を非常によく引き立てているメイクだと思った。

とくに新しい情報はないが、既出内容をコンパクトにまとめたドキュメンタリー~『フレディ・マーキュリー The Show Must Go On』

 『フレディ・マーキュリー The Show Must Go On』を見た。フレディ・マーキュリーについてのドキュメンタリー映画である。正直なところ、今までクイーン関係のドキュメンタリーや本などにいくつか触れたことがある人にはあまり新しい情報は無いと思うのだが、今まで出てきている情報をコンパクトにまとめた内容で、初心者にはたぶんこれ1本でいろいろわかるのではと思う。 

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発想は悪くないのだが、それを活用できていない~『マダム・ウェブ』(ネタバレあり)

 『マダム・ウェブ』を見てきた。

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 ニューヨークで救急隊員をしているキャシー・ウェブ(ダコタ・ジョンソン)はシャイな性格で、救急隊の仲間以外とは付き合いもなく、ひっそり暮らしていた。ところが、とある事故をきっかけに急に直後の未来が見える特殊能力が発現する。たまたま列車に乗り合わせた3人の少女が殺される未来を見たキャシーは無理矢理3人を降ろして助けようとするが…

 全体的に、発想はけっこう悪くないのだが、きちんとその発想を活用することが全然できていない映画である。脚本がたるいし、終盤はかなり編集がとっちらかっている。孤独な救急隊員の女性が突然予知能力を得てしまい、殺人を防ごうとする…というのはやり方によっては大変面白いサスペンスになると思うし、また途中の救急車チェイスはわりと面白いと思うのだが、そのへんが全然うまく生かされていない。最初と中盤のペルーのくだりは全く要らない…というか、ヒーローオリジンものだから入れたんだろうが、むしろ流れが悪くなっているだけだし、自分が保護している未成年者をいきなり職場の仲間に預けてペルーに行くキャシーはちょっと大丈夫かという感じである。また、この職場の仲間であるベン(アダム・スコット)には臨月の義理の姉メアリ(エマ・ロバーツ)がおり、メアリが産気づいてしまって車で病院に急行するのだが、そこでこの預かっている3人の女の子を全員乗せていくのも意味がわからない。この3人は救急とか衛生について知識があるわけでもないし、赤の他人だし、もう高校生くらいなんだから家で掃除と電話番でもさせておいたほうがいいだろうに…と思う(直前までおやつを食べててすごく散らかった状態で慌てて家を出たので)。それで病院に行く車に乗ったせいで敵のエゼキエル(タハール・ラヒム)に見つかってしまうのだが、わざわざ自分から見つかりに行っているようなもんである。なお、このエゼキエルはキャシーのお母さんを殺してスパイダーマンみたいな能力を身につけたのだが、この3人の女の子に殺されるという予感があるため3名を狙っている…ものの、大の男が天井に張り付いて若い娘を狙う様子は変質者にしか見えない。

 救急車の中の装備を使ってこのスパイダー変質者と戦うところは悪くないと思うので、たぶん予知能力のある救急車ドライバーが3人の女の子を救急車に乗せ、町を爆走して逃げながら救急車にある装備を何でも使ってスパイダー変質者と戦う…みたいな90分くらいのタイトな乗り物アクションにすればよかったのではないかと思う。救急車の中には注射針とか痛み止めとか服を着るハサミとか点滴用具とか、たぶんもっと武器にできるものがあるはずだと思う。少女のひとりであるジュリア(シドニー・スウィーニー)が武道を習っており、もうひとりのマティ(セレステ・オコナー)はスケートボードが得意なので、そのへんも使って戦えばいいのだと思うのだが、全然そういう技能も生かされていない。

 あと、内容がけっこう保守的なのも気になった。序盤のペルーのオリジンのくだりはけっこうプロライフで、最近こういうの流行ってるのかな…と思う(『クワイエット・プレイス』とか『ソウルフル・ワールド』とか『死霊のはらわた ライジング』とか…)。また、3人娘が踊って男の子の気を引いていたせいでスパイダー変質者に気付かれて襲われるところは、「若い娘が色気づくと悪いことが起こる」みたいな展開で何じゃこりゃと思ったし、そもそもこの少女たちは年齢のわりには苦労人という設定なのにそんなことにも気付かないとはバカすぎでは…という気がした。最後は「子どもは大人の言うことをきかないとダメだよ!」というところに着地するので、そこもちょっと権威主義的というか、若者の主体性を無視したオチになっていると思う。

 なお、本作は市民に救急知識の重要性を訴えるプロパガンダ映画(!?)である。こんなにあからさまに心肺蘇生法が大事だ!ということを言っている映画は珍しい…というか、途中のくだりで「あ、これ最後までに誰か心肺停止するんだな」とわかってしまうくらい露骨に心肺蘇生法の話が出てくる(ここで女の子たちが感心するとこがすごくわざとらしい)。また、この映画はAEDは正しく使わないといけないとか、救急車は車道では常に優先で通さなければいけないということもアピールしている。