イヤなヤツが譲れない倫理のために戦う時〜『あなたを抱きしめる日まで』(ネタバレあり)

 スティーヴン・フリアーズ監督、ジュディ・デンチ&スティーヴ・クーガン主演『あなたを抱きしめる日まで』を見てきた。これ、原題はPhilomena(『フィロミーナ』、ヒロインの名前)で、内容も『あなたを抱きしめる日まで』とかいうような感じのセンチな母ものではないし、予告も「一人の主婦」の話だとかなんとか言ってて(ヒロインは元看護師の退職者なんだけど、主婦や主夫がテーマの映画ならともかく、退職したおじいさんは「主夫」とは宣伝しないのにおばあさんだと「主婦」と宣伝するのはなぜ?)、邦題も予告もセンスがないと思うのだが、それはともかく内容はとてもいい映画だった。実話をもとに自由に脚色した話らしい。

 ヒロインのフィロミーナ(ジュディ・デンチ)はアイルランド系のワーキングクラスの女性で、五十年前に未婚の母となり、マグダレン洗濯所(所謂「ふしだらな女性」を収容し、強制労働させる修道院経営の施設)に入れられて息子のアンソニーを奪われたという過去があった。老いたフィロミーナはこのことを娘に話す。娘は最近、政府のスキャンダルでスピンドクターの職をクビになったジャーナリストのマーティン・シックススミス(スティーヴ・クーガン)にたまたま出会い、このことを話していなくなった母の息子について取材調査をしてくれないかと頼む。渋々引き受けたマーティンはフィロミーナと一緒に調査に乗り出すが、やがてアンソニーアメリカに養子として売られ、修道院がその記録を隠蔽していたことがわかってくる。

 とにかくすごいのはジュディ・デンチスティーヴ・クーガンの演技である。デンチ演じるヒロインのフィロミーナとクーガン演じるマーティンはある意味で対極にある人物だと思うのだが、私としては子どもを二人も産んでいろいろつらい経験をしてきたのに聖女のように無垢で敬虔でかわいらしく屈託のないフィロミーナよりも、一見すげーエリート主義的で嫌なおっさんであるマーティンのほうがより複雑な人間として深く掘り下げられているように思い、常に不愉快なヤツの役で力を発揮するクーガンの面目躍如だと思った。マーティンは不適切な冗談ばっかり言ってて皮肉屋でたぶんスピンドクターとしてけっこう汚いこともしてきたようなキャラなのだが、最後に修道院がやっていた人権侵害を発見し、それに携わっていたシスターと対峙して激怒する。なんというか、人間生きていればけっこうチンケな悪事とかに手を染めてしまうものだが、マーティンはそういうダメなところもたくさんある人でありながらも根本的な倫理についてはかなり健康な感覚を保ってる男である。シングルマザーを奴隷労働させ(はっきりとフィロミーナをslaveにしたという点を非難している)、無理矢理その子どもを奪い、さらにそれを隠蔽したっていうのは基本的な人倫みたいなものに強く反すると思ったからマーティンはあんなに怒るんだろう。ああいう、ふだんは結構グダグダになってる人が譲れない倫理観みたいなものにかられて戦うというのはすごく人情の機微と人間に対する信頼を示しているものだと思う。とにかく優しくて自分を虐待したシスターを許すフィロミーナはたしかに立派で神々しさすら感じるが、世の中にはマーティンみたいに神も仏も信じず、ねちっこくいろいろなものを掘り出して怒る人も絶対必要だと思うし、いつもは俗物でイヤなヤツが譲れない倫理のために戦って一瞬だけヒーローになるというのはなんともいえず人の心を動かすところがある。またまたフィロミーナの許しに対するマーティンの複雑な反応は、この物語はフィロミーナのものであるが、それに対する解釈は自由なのだということをも示していて、作り手側がより観客に深く考えることを促す終わり方であるようにも思える。

 旅をする映画でもあって、最後に始まったところに戻ってくるという構造になっているのだが、アイルランドイングランドワシントンD.C.の景色をうまく使って映画としてのヴィジュアルを引き締めているところもよかった。アイルランドは全体のキーワードになっているので、注意して見るといいと思う。


↓フィロミーナが収容されてたのはマグダレン洗濯所という施設で、アイルランドにはこういう「ふしだらな」女性を強制労働させる施設がたくさんあったらしい。私は観てないのだが『マグダレンの祈り』という映画がある。

マグダレンの祈り [DVD]
ショウゲート (2004-04-23)
売り上げランキング: 39,235