理想宮か、公共彫刻か?〜『アナと雪の女王』(ネタバレあり)

 『アナと雪の女王』を見てきた。私、ディズニーが大っきらいなので金を払って見に行きたくなかったのだが、あまりの評判の良さに敵の軍門に降ってしまった…

 好き嫌いはともかくとして、見た後最初の感想は、「これは女子のスター・ウォーズになる」ってことである。今まで「女子のスター・ウォーズ」と呼ばれている作品は『ダーティ・ダンシング』であった。男の子がジェダイに夢中になっている間、女の子は『ダーティ・ダンシング』の台詞を引用しているのだそうだ(私はジェダイ派)。しかしながら『アナと雪の女王』は一言で言うと「暗黒面に堕ちなかったアナキン」の話である。アナキンのフォースもエルサの魔力も非接触型ハンドパワーであるし(←ごめん、もっと気の利いた言い方を思いつけばいいんだけど)、どちらも怖れによって暗黒面に堕ちかけるのだが、怖れを克服できなかったアナキンに対してエルサは愛の力により勝利する。とにかくよくできた映画だし、女性やセクシャルマイノリティの間での人気ぶりを見ても今後はこれが「女子のスター・ウォーズ」になるんじゃないかという気がしてならない。ただ、マイノリティの隔離を扱ってるっていう点では『X-メン』にも似てて、とくに分離主義vs社会への包摂っていうテーマがあるところはスター・ウォーズよりX-メンを参考にしてるような気もしたけど。


 …しかしながら、好きかって言われるとあんまり…で、詳しい感想を書く前にどうして私がディズニーが大嫌いかっていう話をしておかないとと思う(そうでないと、ちょっと私の感想が意味わからんかもしれないと思うので)。私がディズニーを嫌いなのは、ディズニーは他人には一切自分のところの著作物を使わせないのに、自分の会社では著作権切れの古典なんかを再利用しまくって、またまた自社製品についてはオマージュやり放題という態度をとっているからである。ディズニーは基本、夢とか魔法の話をするだけで自由には全く興味が無い会社だと思ってる。



 今回の『アナと雪の女王』についても、基本的にディズニーは自由には興味が無いなんだなと思った。まあ条件付きの「自由な社会」には興味あるのかもしれない。エルサはマイノリティ、もっと直接的に言えばおそらくセクシャルマイノリティを意識したヒロインであり、その力の解放を描いているという点では「自由な社会」についての話と言える。



 エルサの描き方はうまいぐあいに抽象化してあるのでマイノリティ一般の話としてとってもいいような感じになっているのだが、実のところエルサはかなり「ゲイ」なヒロインだと思う。まず、これは既にいろいろなところで指摘されていることであるが、エルサは作中で一切、異性愛と関わらないし(プリンセスなのに求婚者すら一人もいないし、たぶん男性との恋愛には興味が無い)、さらにアナの男の子へののぼせ上がりに対して冷めたコメントをしたりして、最後は異性との恋愛なしに家族愛とか友愛だけで幸せに満ち足りた状態になる、というあたり、この映画は異性愛に対する幻想を打ち砕いているところがある。さらに、エルサが社会から排斥される理由となる氷の魔力は肌の色とか目に見える身体障害みたいな、目で見ればすぐ判別できるスティグマではなく、隠せるもの、つまり隠蔽しておけば「ノーマル」な人間としてパスしうるものであって、これはたぶん相当に同性愛を意識している。同性愛というのは、オスカー・ワイルドと彼氏のダグラスが自分たちの恋愛を'the love that dare not speak its name'「その名を口にできぬ愛」と形容して以来、unspeakable(口にできない)ものとされており、最近までアメリカで使われていた'Don't ask, don't tell'ポリシーに至るまで、「隠されたもの」として扱われてきた。エルサが歌う'Let It Go'の英詞を見ればわかるように、エルサの魔力というスティグマは'Conceal, don't feel, don't let them know'「隠しておけ、感じるな、人に知らせるな」というモットーのもとに秘密にされてきたものであって(このへん日本語字幕だとわかりづらいかも…全体的に字幕はちょっとニュアンス不足な気がした)、このあたりはアメリカにおける同性愛の扱いを強く思い出させるものがある。エルサはこれを隠すために宮殿の内宮の一室みたいなところに軟禁されるわけだが、これは「クローゼットに入れられる」(英語では、in the closetとかcloseted、つまり「クローゼットに入っている」で「同性愛者であることを隠している」という意味。これはテストに出る!)ことの象徴的表現に見える。さらにパスできなくなってバレてしまったら化け物扱いされる、というのもエルサの魔力と同性愛の共通点である。またまた、山に引きこもって変身するところでいきなりゲイゲイしいオシャレなドレスに変身し、さらにはよくわからないクリエイティヴィティを発揮してスゴい氷のお城を創作するあたりもポイントである(ゲイ=クリエイティヴだ、っていう偏見があるが、あれを生かしてるんじゃないのかな?『アデル、ブルーは熱い色』とかでもエマはクリエイティヴでアートな「典型的な」レズビアンだった)。姉を探しにきたアナに「姉さん、変わったね!」と言われるが、このリアクションは「カムアウトして家出した家族に久しぶりに会ったらすごいゲイゲイしくかつアートな感じになっていた」時のリアクションだと思った(この場面は「姿ががらりと変わる」という点でゲイよりはむしろトランスジェンダーのお客さんを意識してるかも…という気もするけど)。こういうエルサを悪役として描かず、魅力のあるヒロインとして最後は救済するあたり、この映画はある程度までマイノリティの「自由」、人と違うことに対する「自由」についての映画だと思う。


 しかしながらこの話がそこまですっごく自由な話ではないと思うのは、エルサの魔力が結局、社会に還元させないと価値が無い、みたいな方向に着地するからである。エルサが人里離れた雪山に逃げ込んで作った氷のお城はびっくりするほど綺麗な造形だが(この映画の視覚効果は全体的にすごい力が入っており、おそらく氷の城の美術も大変な手間をかけたと思われるのだが)、一方で危険なものでもあり、どっちかというとシュヴァルの理想宮みたいな、アウトサイダーが一人で勝手に作ったスゴいもの、孤独の産物としての芸術作品である。私は人間嫌いなもんで、別にエルサがこういうスゴい芸術建築を日々洗練させながら雪だるまを相手に一人で世間を呪いながら暮らしていってもいいんじゃないのか、と思うのだが、この話ではそうは問屋が卸さない。エルサの暗黒のフォース、じゃなかった魔力の暴発のせいで故郷まで氷に閉ざされてしまったため、エルサはこれをかつての状態に回復させるという社会的責任を負わされる。エルサはまあ半分は偶然みたいな形だったとはいえ、妹との家族愛の絆によって女王としての義務を果たし、公共圏をもとの気候に回復させるわけだが、最後、エルサは自分の魔力で氷の城ではなく、スケートリンクや氷の彫刻を作っている。結局、あのスゴかった氷の城は放逐されたのである。つまりこの映画では、自由を謳歌しまくり、階級や社会が求める役割から離れて差異によって生じるものすごいクリエイティヴィティを自分のための芸術作品に費やすよりは、市民のためにベタなスケートリンクとか公共彫刻を作ることが評価されるのである。まあこれは完全に好みの問題だが、私はこういう「マイノリティを社会に包摂するのが大事」「社会に対して責任を果たしましょう!」「ひとりは寂しい、社会や家族と関わってこそ幸せ」みたいな落とし方はあんまり好きじゃない。エルサはあのスゴいクリエイティヴィティで孤高の芸術を作る生き方だって大いにアリだと思うのだが。


 まあしかしたぶんこの映画がこういう展開になるというのは、現代アメリカ社会の状況を考えると非常に適切なんだろうと思う。この映画はアメリカ合衆国で反同性愛的な保守派の人々の神経を逆なでしまくっているらしいのだが、見ているとこれは本来、保守派を怒らせる作品として構想されているんじゃないかとすら思えてくる。だってこれ、「セクシャルマイノリティや女性はすごく社会に貢献できる市民なのに、虐待するとふてくされてその力をテロに使うからちゃんと社会に入ってもらいましょう」というようなストーリーをマイノリティ側から描く、つまりは「社会に入れてくれなきゃいたずらするぞ!」みたいな、挑発に近い話として見ることもできると思うからである。これは深読みしすぎかもしれないが、最初の場面でトロールが「頭なら治せますけど、心がやられると」という台詞なんか、後半になってから再考するとまるで同性婚やら他のいろいろな伝統的でない家族を認めない人たちへの皮肉みたいだよね?トロールたちが種族の違うクリストフとスヴェンを養子にして立派な大人に育てているっていうのもたぶん同性愛のカップルが養子をとることを批判する人たちを意識してるんじゃないかと思うし…

 最後にいくつか細かい点をメモっておくと、この映画の雪の質感はすごくリアルで、『スノーピアサー』の雪描写なんかこれに比べればゴミだ…あの地吹雪でいきなり視界がゼロになるあたりの描写とか、雪国育ちとしてはリアルすぎてびっくりした。細かいことを言うと、あんなに気温が下がるとああいうキレイな雪の結晶はできにくくなると思うのだが、まあそれは美術さんの創作の自由なんで別にいいか。