時を超える愛のためのメディアとしての「本」について〜『インターステラー』(ネタバレあり)

 クリス・ノーラン監督の新作『インターステラー』を見てきた。

 実は私は『ダークナイト』と『ダークナイト・ライジング』が両方とも全然面白くない、というか積極的にかなり嫌いだったので、『インターステラー』の予告編を見た時に「このアルマゲドン感はヤバい、見に行かないだろう」と思った…のだが、けっこう好評で人にすすめられたりしたので行ってきた。結論としては行ってよかった。『インセプション』は大好きだったのだが、どちらかというとあの系統でかなり面白かった。

 あらすじはいろいろなところでさんざん説明されているいるし、いろんな分析も既に出ているのでそんなに詳しく述べなくてもいいかとは思うのだが、一応簡単にだけは書いておくと、舞台は近未来の地球。異常気象と植物の疫病による食糧危機で地球は滅亡寸前であった。元は飛行士だったが、今はアメリカのド田舎で農家を営んでいる寡夫クーパー(マシュー・マコノヘイ)は、ある日ひょんなことから地球を救うためのNASAの宇宙探査ミッション「ラザラス計画」にパイロットとして参加することになる。しかし、地球に替わる新たな人類の星を探すこのミッションは非常に危険なもので、まともに帰ってこられるかもわからない。寡夫であるクーパーには息子トムと幼い娘マーフがおり、とくに感受性が強くお父さん子のマーフは父が旅立つことを認めない。クーパーはそんな娘を振り切ってミッションに出かけるが、宇宙にはウラシマ効果やら大波やらムカつく感じのみゃっと・でいもん…じゃなかったマット・デイモンやら(?!)いろいろな障害があり、人類を救うのもマーフに再会するのも難しく…

 こう書くとどう見てもつまらないSF映画だが、すごくちゃんと作ってあるので全然つまらないということはない。この映画がとにかく面白いのは、全体の「ホンモノ」志向が単なるこだわりではなく、映画全体のテーマと密接につながっているからである。ノーランはこの映画を作るにあたり、CGよりもとにかくミニチュアなどを使ってホンモノ感を出そうとこだわっていたらしい。私は映画はイリュージョンの芸術だと思っているのでそういう偏執狂的なホンモノ志向は全然面白いと思わないのだが、この映画の場合、「肉体を残す」ことがテーマになっているのでおそらくこのホンモノ志向は映画のテーマを表現するために必要であった。この映画においては、人類の生存のためのシナリオとして、どうにか技術的解決策を見つけて移住で現在生きている人を救う「プランA」と、精子と卵の人口爆弾を用いて新たな惑星に人類の遺伝子だけを残すという「プランB」が登場する。ここでプランBは「現在生きている人間の肉体を残さない」プランとして否定的に描かれている一方、とにかく今生きている人々の肉体と感情を残そうというプランAが肯定的に描写され、プランAを支持するクーパーたちの感情が科学技術の基礎となるべき倫理として提示されている。これと並行して、この映画はクーパーの「肉体を持ってマーフのもとに帰還したい」という情熱をもうひとつのテーマとしている。これはどちらも、今生きる人間の肉体と感情を残したいという強い思い、言ってみれば今肉体を持って存在している人々への愛を主軸とするものである(これ、最後がスター・チャイルドで終わって子宮などの肉体が無視される『2001年宇宙の旅』とは完全に逆の、肉体的存在と愛に基づく倫理を提示してると思った)。こういうテーマを示すためには、ミニチュアでも実体を用いて撮影するという発想はおそらく美術的こだわりとして必要だったのだろうと思う。

 そしてこのホンモノ志向が最もよくあらわれているのが、最後に明らかになる本の使い方なのではないかと思う。本は粘土板のたぐいを除けば最も長持ちする記録媒体のひとつであり、人類の知識を古代から伝えるものとして最も有用であった。また、個人的な気持ちを託して人に贈るのに適したものだとされている(大事な人に本を贈るのは昔からよく行われていることだが、iTunesの曲とかを贈って同じ効果が得られるかというと疑わしい)。クーパーの父としての愛情と人類を救うための知恵を託す贈り物としてはやはり本が一番適しているのだろう。これはメールとかビデオチャットではダメで、実体である本を使わないとダメなのである。

 さらにクーパーがマーフに本を使ってメッセージを送るのには、おそらく本は任意の時間に読者が立てる時間移動が可能なメディアだから、ということもあるだろうと思う。本は最初のページから最後のページまでひとつの世界を形成していると言われているが、読者は途中で前に戻ったり、途中をすっ飛ばして先のほうを読んだりすることが可能であって、時間の流れにとらわれている人間は本の中であればその縛りから解放されうる。クーパーがマーフと本棚を通して交流するというのは本の時間移動的メディアとしての特性がほのめかされているのではないかと思う。ちなみにこの「時間移動的メディアとしての書物」という発想は『ドクター・フー』シーズン2の名エピソードとして知られている暖炉の少女の物語で少しだけ触れられているのだが、本棚を通して父が娘と交信する『インターステラー』は、暖炉を通して愛し合う男女が交信する「暖炉の少女」とかなり似たところがあると思った。ノーラン、ひょっとして『ドクター・フー』見てる?

 なお、他にもいろいろ細かいネタで面白いところはたくさんあった。科学的な細部については他の議論にまかせるとして、この映画は白人男性が行う権威を持った科学はダメな科学だという方向性で描かれているところがなかなか興味深い。女であるアメリアやマーフ、アフリカンのロミリーは真面目に科学に使えているが、老いた男性でいかにも科学者のステレオタイプっぽいブラント博士(マイケル・ケイン)は嘘をついていたし、さらにマット・デイモン演じるマン博士はその名もMannで「男性」(Man)を想起させるところがあるのだがかなりマッドな野郎で、あまりにも理性偏重で人間らしい感情を尊ばないその態度は強く批判されている。主人公のクーパー(これ、ゲーリー・クーパーを想起させるよね?)は白人男性だが、科学者ではなくパイロット/エンジニアで、宇宙の理論を説き明かすよりは作ったり運用したりするのが専門である。最後にマーフに情報を伝えようとするあたりは科学コミュニケーターと言ってもいいのかもしれない。この映画には、科学技術は権威と結びついて理性偏重になる時に堕落するが、オープンで人間の倫理や愛などを組み込んだ探求であるかぎりは人類を救うというメッセージが含まれているように思われる。

 ちなみに、小ネタとしてはTARSのユーモアレベルの話が面白かった。クリス・ノーランにユーモアがないというのは私だけの考えじゃなくジェダイ評議会の総意だと思うのだが、今回はコメディのセンスがあるマコノヘイを主演にしていることもあり、TARSのジョークが面白くないからユーモアレベルを下げようというあたりのやりとりは監督にユーモアがないことに自虐ネタをかましているのかと思った。